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【H×H イルミ 】黒と白のアリア 

第3章 崩れゆく調律


それでも今のニナは、ジャガイモの皮を丁寧に剥き続けることしかできない。

ニナの胸の奥に小さな痛みがよぎる。
一定のリズムで動いていた包丁の手が、ふと止まる。
——夜になれば。

その先を、考える前に息が浅くなった。

楽譜の読み書き、歌の練習……この家の誰もが当然のようにできることが、自分にはとても及ばない。



夕食のスープの皿を下げようとした、その時。

「ニナ」

背中に、冷たいものが走った。

カチャ

手にしていた皿が、わずかに鳴る。

振り返ると、そこにイルミが立っていた。
漆黒の髪、と瞳。
いつもと何も変わらない顔のまま、ただこちらを見下ろしている。

「これを写譜しておけ。明日の夜までに完璧に」

差し出された楽譜は、十二ページにも及ぶ複雑な曲だった。
一目で、理解が追いつかない。
指が、受け取る前にわずかに止まる。

ニナは音楽が好きだった。
イルミの演奏を初めて聞いたとき、心が震えた。
でも、それは「聴く」だけだったから。



その夜、部屋の隅の小さな机に向かった。
蝋燭の灯りが揺れる中、ペンを握る。

「……写譜か」

インクを含ませたペン先を、恐る恐る楽譜に置く。
細かな音符を一つずつ追い、線の上や間に同じ形を写す。
だが、どこにどの記号を置くのか、すぐにわからなくなる。
シャープか、ナチュラルか。
フォルテか、ピアノか。
ほんの一音でも違えば、もう別の音楽になる。

ニナの字は綺麗だった。
けれど、それだけでは足りない。

ペン先が、紙の上を滑っていく。
丸い音符。
細い棒。
黒く塗りつぶされた点。
見たままの形を、同じように並べていく。
けれど、それが何の音で、どんな響きなのかわからない。
楽譜の上に、音楽はまだ無かった。
ニナの中にも、まだ無い。
正しく書けているのかどうかさえ、わからない。
それでも、書くしかない。

イルミの課題は、酷く難しかった。

(……わからない。この装飾音、どうやって書くんだっけ……イルミ様の説明、ちゃんと覚えておけばよかった……)

深夜を過ぎても、写譜はまだ始めのページも終わっていなかった。
目が霞む。
頭が重い。

それでもニナは目を擦って音符を書き写した。

「……ちゃんと役に立たなきゃ……」
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