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【H×H イルミ 】黒と白のアリア 

第3章 崩れゆく調律


キキョウ夫人が優雅に厨房へ入ってきた。

「ニナ、ラム肉を頂いたのよ。今日の晩はポトフにしましょう。ジャガイモの皮を剥いてちょうだいな」

上品で柔らかな声。
言葉の端々に品格が滲む。

「はい、奥様。どれくらいの量をお作りしましょうか?」

「久しぶりに家族が揃うのですから、大きな鍋いっぱいに。イルミも戻るはずよ」

キキョウ夫人は微笑みながら、ニナの赤くなった手を一瞥した。

「これ、使いなさい」

そう言って、夫人は小さな陶器の壺を差し出した。
中には、香油が入っている。街の市場でわざわざ選んだものだという。

ニナは慌てて手を拭き、両手でその壺を受け取った。

「ありがとうございます」

言葉は、考えるよりも先に口をついて出た。そう言う以外の選択肢を、思い浮かべることすらなかった。

「つけてみなさい」

壺の蓋をわずかにずらすと、淡い柔らかい薔薇の香りがふわりと広がる。
指先にそっと塗ると、すり傷の痛みがわずかに和らいだ。

(……なんていい香り……)

その甘さに、ほんの一瞬だけ気が緩む。

——だが、次の言葉で、すぐに背筋が伸びた。

「あなたも、もう14歳ですもの。働く娘は、きちんと美しくあらねば。粗末な手では、家族の食事を運べませんわ」

「はい」


夫人はくすりと笑い、ニナの唇に軽く指を当てた。

「素敵よ」

「ありがとうございます、奥様……本当に、素敵な香りです」

少し上ずった声を上げるニナを残し、キキョウ夫人は踵を返した。
漆黒のドレスの裾が、静かに床をなぞる。その後ろ姿から、目を逸らせなかった。

ニナは小さく息を飲み込み、心の中で呟いた。

(奥様みたいに上品で……そうなれたら、ここにいても許されるのかな)
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