第2章 不完全な聖域
翌朝。
昨夜の出来事が、ひどく現実味を欠いた悪い夢のように思えてならなかった。
――あんな無様な話を、よりによってあの人に。
重い足取りでいつもの場所へ向かうと、そこには昨日までと何も変わらない、無愛想な上司が立っていた。
(……合わせる顔がない)
逃げ出したい衝動を抑え、私はただ無言で雑巾を絞る。
軽蔑されているだろうか。それとも、同情されているだろうか。
どんな言葉をかけられても、今の私にはきっと耐えられない。
「……おい、ノア。ぼうっとしてんじゃねぇ」
降ってきたのは、拍子抜けするほどいつも通りの、低い声だった。
「今日は棚の裏だ。昨日こぼした醜態を、埃と一緒に全部拭き取っておけ」
「…………はい」
兵長は昨夜のことなど微塵も気にしていないかのように、ただ厳格に掃除の不備を指摘する。
腫れ物に触るような扱いですらなく、昨日までと寸分違わぬ
「部下」として扱われるその無頓着さが、今の私には何よりも心地よかった。
指先に力を込めて、木目の溝をなぞる。
ほんの少しだけ、視界の色彩が戻ったような気がして。
私は小さく、誰にも悟られないように息を吐いた。