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蝕に攫われた春 【十二国記 延王】

第1章 海客の少女


ある夜のこと。
雁州国の王、尚隆は「風漢」と名乗り、いつも通り市場調査だと宣いながら下界の喧騒に紛れて酒を煽っていた時、隣り合った客たちの口から、ふと奇妙な噂を聞いた。


「東の妓楼に、妙な歌を歌う娘がいるんだ。聞いたこともない旋律だが、天女の嘆きかと思うほど美しい歌声だそうだ」


「どうやら『海客』の娘らしい。言葉は通じないが、あの歌声には皆、魂を抜かれる」


「……海客、か」


尚隆は杯を置き、わずかに目を細めた。



異界から流れ着き、言葉も分からぬまま夜の街に沈む者は少なくない。
興味を惹かれた彼は、ふらりとその店へと足を向けた。





店に入ると、そこには異様な静寂が広がっていた。
荒くれ者たちが息を潜め、一人の少女を凝視している。

小さな舞台に立つは、透き通るような、それでいて今にも消えてしまいそうな危うい美しさを纏っていた。

彼女が口を開く。



「ーー会いたくても会えない日々に 君を思い 空を見上げるーー」



その瞬間、尚隆の身体に衝撃が走った。
それは、この世界の言葉ではない。
彼がかつて捨ててきた故郷、蓬莱の言葉——日本語だった。


透明な歌声が、湿った夜の空気を震わせる。

歌詞の意味を解するのは、この場では尚隆一人だけだ。
だが、彼女の歌に込められた「帰りたくても帰れない」という絶望と切望は、言葉の壁を越えて客たちの胸を打っていた。


歌い終えた彼女は深々と頭を下げると、何かに怯えるように足早に舞台を降りていった。



「……おい、女将」



尚隆は、満足げに客の反応を眺めていた女主人を呼び止めた。



「あの娘と少し過ごしたいんだが。いくら積めばいい?」



だが、彼女は鼻で笑い尚隆をあしらった。



『悪いね、客人。あの娘、流花は特別なんだ。歌わせるだけで金が唸る。男の相手をさせて、喉を潰されたり心が壊れたりしちゃあ困るのさ。悪いが、諦めな』



「そいつは残念だ」




尚隆は肩をすくめ、追及を諦めて店を出た。


王として強引に奪うこともできるが、今はその時ではない。



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