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蝕に攫われた春 【十二国記 延王】

第1章 海客の少女


ある日のこと。
客の入る前の静まり返った部屋では膝を抱え、空を見つめていた。


ふと、胸の奥底から込み上げるものがあった。
それは、ここではないどこか、遠い記憶の向こう側にある故郷の情景だった。



「ーー世界はとても広くて 私は遠くへ行ってしまったけれどーー」



震える声で歌を口遊む。
言葉の通じないこの世界で、唯一自分を自分たらしめる懐かしい響き。
孤独と絶望を埋めるように歌い続けると、いつの間にか女主人が部屋の入り口に立っていた。


女主人はその歌声に目を見開いた。
この国の歌とは旋律も、言葉の響きも違う。
だが、その声には聴く者の胸を締め付けるような、不思議な哀愁と美しさが宿っていた。


『おい、今のを客の前で歌え』


女主人が身振り手振りで広間を指差し、口を動かす仕草をする。
最初は戸惑っていたも、女主人の強引な態度から、自分が「歌うこと」を求められているのだと察した。



夜、煌びやかな灯りに照らされた広間で、は震えながら声を絞り出した。



「ーーたとえ どんなに遠く離れていても この空で繋がってるからーー」




ざわついていた客たちが、一瞬で静まり返った。
異界の言葉で綴られる、透明な旋律。
誰も意味は分からない。

しかし、その歌声に乗せられた深い哀しみと、故郷を想う切なる願いは、荒くれ者たちの心さえも震わせた。



『素晴らしい……! こんな歌は聴いたことがないぞ!』


『おい、もっと歌わせろ!』


興奮した客たちが次々と大枚を投じる。
その光景を見た女主人は、かつてないほど上機嫌に笑った。




翌朝、女主人はの前に豪華な食事を並べ、優しく肩を叩いた。



『もう、男には抱かれなくていい。お前は、ただその歌を歌っていればいいんだ』



女主人の言葉はやはり分からない。
けれど、寝所へ引きずり込もうとする男たちの手が止まり、自分に与えられた役割が変わったことだけは、なんとなく理解できた。



こうして、は「歌」を切り売りすることで、夜の底を生き抜く術を見出した。


歌うたびに故郷を思い出し、胸が張り裂けそうになる。
それでも、男の腕に沈むよりはましだった。

彼女はただ、見知らぬ空の下で、届かぬ祈りのように歌を紡ぎ続けていくーー。




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