第1章 海客の少女
表に出ると、夜風が火照った頬を撫でた。
裏通りを抜けようとしたその時、路地の角で粗末な着物に着替え、身軽な格好で夜の闇に紛れようとしている少女と鉢合わせた。
店で見た、あの少女だった。
「……いい歌だったぞ」
尚隆が語りかける。
その言葉が耳に届いた瞬間、の肩がびくりと跳ねた。
彼女は恐る恐る、信じられないものを見るような表情で振り返る。
「……え?……日本、語?」
その瞳に驚愕と、震えるような歓喜が灯る。
数えきれない夜を孤独の中で過ごし、自分以外の誰にも届かない言葉を呪ってきた彼女にとって、それは奇跡に等しい響きだった。
「わ……わかるんですか? 私の言葉が……」
震える唇から、ようやく紡ぎ出されたまともな対話。
は目の前に立つこの男が、自分の地獄を終わらせてくれるかもしれないという、か細い希望を抱かずにはいられなかった。
震える声で問い返すと、男ーー風漢は、どこか飄々とした笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、わかる。俺はこれでも仙の端くれでな。神仙の力とやらで、あらゆる言葉が通じるようになってるんだ。お前の故郷の言葉もな」
「仙……? 神様みたいなもの、ですか?」
にとって、それはお伽話のような響きだった。
だが、目の前の男が発する「日本語」の響きだけは、何よりも確かな現実だった。
言葉が通じる。
その事実だけで凍りついていた彼女の心が、音を立てて溶け出していく。
「お願い、教えてください。ここは、どこなの? 私は、日本のどこかの島に流されたの?」
縋り付くような問いに、風漢はふいと視線を夜空へ向けた。
そこには、日本で見慣れた星座など一つも存在しない。
「残念だが、ここは日本じゃない。お前たちが住んでいた場所は『蓬莱(ほうらい)』と呼ばれている。ここは虚海を隔てた、まったく別の世界だ」
「……別の世界……」
「ああ、この世界には十二の国があり、天意によって選ばれた王達がそれぞれ国を統治する……お前のいるここは『雁』という国だ」