第1章 彼氏は自担です。
拓人の膝の上。
逃げ場のない腕の中で、うさみは深く、深く呼吸をした。
ずっと社会の荒波に揉まれてきたんだ。プレゼンだって、数々のトラブル対応だってこなしてきた。
それなのに、目の前の31歳の男が放つ「寂しい」なんて言葉一つに、こんなにも余裕を奪われている。
「……てら」
「ん?」
「……じゃなくて」
うさみは意を決して、彼の広い肩に額を預けた。
視線を合わせたら、きっとまた言葉が消えてしまうから。
拓人の体が、期待に満ちたように微かに強張るのが伝わってくる。
「……たくと」
熱を帯びた、小さな、でも確かな声。
生まれて初めてその名前を唇に乗せた瞬間、うさみの胸の奥がキュッと締め付けられた。
「……たくと、くん」
「……くん、はいらねぇんだけど」
彼が低く笑う。けれど、その声はどこか震えていて、彼もまた余裕たっぷりではなかったことが知れる。
彼はうさみの顎に指をかけ、ゆっくりと自分の方を向かせた。
至近距離で合う視線。
そこには、テレビの向こう側の「寺西拓人」ではなく、うさみの呼んだ名前に魂を揺さぶられた一人の男がいた。
「……もう一回」
「……たくと」
今度は、逃げずに真っ直ぐ見つめて呼んだ。
すると、拓人は目尻を熱そうに細めると、うさみの頬を両手で包み込み、こらえきれないといった様子で深く口づけた。
さっきまでのドタバタした攻防が嘘のように、静かで、重厚な沈黙が部屋を満たす。
唇から伝わるのは、19年という月日を経て出会った二人だからこそ分かち合える、切実な熱だ。
「……やっと呼んだ」
唇を離した拓人が、額を合わせたまま、蕩けたような声で囁く。
「お前が『てら』って呼ぶたびに、どれだけもどかしかったか……。ファンでいてくれるのは嬉しいけど、俺が欲しいのは、お前の『特別』だけなんだよ」
彼はうさみの腰をさらに自分に引き寄せ、深い吐息をついた。
年齢差なんて、積み上げてきたキャリアなんて、この熱の前では何の意味も持たない。
「……うさみ。今夜、もう仕事のことなんて思い出させないくらい、めちゃくちゃにしていい?」
その瞳にあるのは、徹底した危機管理で守り抜いてきた彼が、唯一佳奈にだけ開示した「本能」だった。