第6章 I want your flavor. 2
夕日が長く伸びる頃、うさみは住み慣れた自分のマンションに帰ってきた。
オートロックを開け、玄関の扉を閉めた瞬間、いつもの自分の部屋の匂いが出迎えてくれる。けれど、さっきまでいたあの「要塞のような場所」の静寂と、身に纏っていた香りの余韻が強烈すぎて、少しだけ足元がふわふわとした。
脱ぎ捨てたコートの袖から、ふわりと彼の愛用している柔軟剤の香りが漂う。
(……本当に、置いてきてしまった)
言われた通り、脱ぎたてのパーカーを彼のベッドの上に置いてきた。
お風呂に入り、自分の香りに上書きしてしまうのが惜しくて、しばらくそのままの格好でソファに座っていた。
夜の22時を過ぎた頃。
暗くしたリビングで、スマホが震えた。
「…もしもし、終わったの?」
『ん。今、家ついたところ』
受話器越しに聞こえる声は、少しだけ低く、疲労が混じっている。
でも、どこか安心したような響き。
「お疲れ様。今日、大変だった?」
『まあね。でも、玄関開けた瞬間、ちょっとびっくりしたわ』
彼は少しだけ笑いを含んだ声で、言葉を続ける。
『……本当に、うさみの匂いがする。…これ、仕事行く前に嗅いでたら、絶対家から出られなくなってたわ』
「大袈裟」
『大袈裟じゃないって。……今、そのパーカー、枕元にある』
それを聞いて、胸がキュッと締め付けられた。
テレビカメラの前で、何万人ものファンに完璧な笑顔を振り撒き、一分の隙も見せない彼が、暗い寝室で一人の女性の「残り香」に縋っている。
『……うさみ』
不意に、彼が静かに名前を呼んだ。
「なに?」
『次、いつ会える。残り香だけとか無理だわ』
電話越しの吐息が、耳元に直接触れているかのような錯覚に陥る。
落ち着いているようでいて、一度火がつくと自分たちでも制御できないほどの熱を帯びていた。
「あはは……私も、会いたいよ」
窓の外には都会の夜景が広がっている。
それぞれの場所で、同じ夜空を見上げながら、二人は次に会う時の匂いを、もう一度確かめ合うように語り続けた。