第1章 彼氏は自担です。
「……てらは、辞めたいって思ったこと、ないの?」
うさみが彼の胸板に額を預けたまま小さく呟くと、彼は彼女の髪を指先ですくった。
「……無いことはないよ。」
彼はうさみの顎をそっと持ち上げ、じっと見つめる。
30代の、脂の乗った一人の男の顔。
隠し事も、嘘も、世間への虚勢も一切ない。
うさみが背伸びをして手に入れたこの静かな空間で、拓人はようやく、誰のものでもない「寺西拓人」として息をしている。
「……明日も仕事?」
「……ううん。休み」
「そっか」
拓人は短くそう答えると、いたずらっぽく、けれど独占欲を隠さない笑みを浮かべた。
「じゃあ、今夜はゆっくりしていいんだ。……うさみのこと、甘やかしてやるよ。俺が一番、お前の頑張りを知ってるつもりだから」
彼の唇が、うさみの耳元をかすめる。
そこには、10代の頃には出せなかった、経験を積んだ男だけが持つ深く濃密な色気が漂っていた。
キッチンから、お湯の沸く柔らかな音が聞こえてくる。
拓人は手際よく二つのマグカップを並べ、うさみの好きなハーブティーを淹れてくれた。
「……はい。これ飲んで、一回深呼吸」
差し出されたカップを受け取ると、蒸気と共に、強張っていた肩の力がふっと抜ける。
拓人はうさみの隣、ソファの少し近い場所に腰を下ろした。
「ミスしたこと、そんなに引きずってんの?」
「……自分でも驚くくらい。もっと上手く立ち回れたはずなのに、余裕がなかったのかな」
うさみがカップの縁を見つめながら呟くと、拓人は自分の膝に肘をつき、少しだけ体を乗り出した。
「……余裕なんて、なくていいだろ。10年、20年……ずっと同じ熱量で走り続けるなんて無理だよ。俺だって、ジュニア卒業して俳優としてやっていくって決めた時も、今のグループに入った時も、いつだって必死だった」