第4章 振りほどくことができなかった日
--仕事の範囲内で楽しむ。
彼女を見習うことにした。
アグレイスは何事もなかったかのように、出席者の顔をなぞる。
品を損なわない程度に膝を覆う布地を持ち上げて、慣れたような手つきで払う。
しなやかな足を伸ばし、歩き出す。
コツコツと軽やかな音を響かせながら向かう先は--色と香りで満ちたビュッフェ。
たどり着くまであと少し。
「あの、えっと……」
困ったように言葉を濁す若い男。
湯気の立つビーフシチューが、上等なスーツの影に隠された。
残念という感情はおくびにも出さず、アグレイスは笑顔を作って記憶を探る。
招待客の顔と素性はすべて頭に入っているはずだった。
沈黙を戸惑いと受け取ったのか、男は両手に持つシャンパングラスを軽く掲げた。
「お恥ずかしい話ですが、連れに逃げられてしまいまして」
顔を赤くして、グラスのひとつを彼女に差し出す。
ステムをつまむ指は震えている。だが、会場の誰もに引けをとらぬ上等なスーツを着こなし、断りにくい空気を醸し出すあたりかなり慣れているといってもいいだろう。
弾けるように泡が立ち上る薄い金色を前にアグレイスは唾を呑み込んだ。
ついでに「仕事中に酒はさすがに控えるべきだ」という言葉も呑み込んだ。
こんな場所で出る酒が、安いわけがない。
どんな味がするのだろう。
導かれるように伸びた手は--空を切った。
背後から、にゅっとわいた手が先にグラスを奪っていたのだ。
強奪者は、そのまま鼻先に寄せ、香りを楽しむふりをする。
奪われたアグレイスと男の表情が露骨に歪んだ。
だがその直後、背後の人物--レノが動いた。
楚々と近付き、にこやかに男の肩に手を置く。
笑っているのは顔だけで、目の奥は冷たい光を宿していた。
「おっと、こんなところに埃が」
わざとらしくレノが男の肩をはらう。
ぱん、ぱんと軽い音。
耳元で囁かれた言葉に、男の顔色がみるみる変わった。
「ああ、すまない」
男は逃げるように背を向け、足をもつれさせるように去っていった。
レノは手にしたグラスを、通りかかった給仕の銀のトレイに戻す。
「ちゃんと片付けとけよっと」
直前の重苦しさを感じさせない、軽い調子だった。