第29章 「善意の逆理 Ⅱ**」
――――――――――――――――
何も見えない。
世界の全部がうるさくて。
でも、自分だけが遠い。
自分の呼吸さえ、どこか知らない場所から聞こえてくるみたいだった。
ただ身体の内側から、どろどろとした熱が溢れてくる。
(あつ、い……)
息をするだけで痛い。
自分の輪郭が溶けていく。
私が、私じゃなくなっていく。
誰か。
助けて。
『あの男も、おまえの中の熱も、すべて呑み込め』
夢の底で、何度も私を呼んだ声。
『それがおまえの“目覚め”だ』
目覚め。
その言葉だけが、頭の中で繰り返される。
――そうしたら、ここから目が覚めるの……?
『その熱が育つほど――おまえは私とひとつになる』
また、声がする。
誰か、止めて。
お願い。
熱い。
苦しい。
(……目を、覚ましたい)
この狂いそうな熱を、どうにかしたくて。
闇の中へ手を伸ばした。
指先が、誰かの衣に触れる。
冷たくて、やわらかい布。
それから、長い黒髪が頬にかかった。
(……悠蓮……?)
そこにいるのは、夢の中で何度も私を呼んだ人。
怖いのに、どこか懐かしく感じるあの人。
『』
囁く声が、すぐ近くで響く。
怖い。
でも、離したら戻れない気がした。
私は両手で、悠蓮を強く引き寄せる。
細い肩に縋るようにして、顔を近づけた。
「……ゆ、っうれ……」
気づけば、悠蓮の唇に触れていた。
――その瞬間、花の匂いが鼻を掠める。
甘いのに、どこか冷たい。
あの花の匂い。
白い花が、暗闇の底で一斉に開く気がした。
『思い出せ。その花が、どこから咲いたのか――』