第117章 有馬にて
朱里はそっと籠を受け取り、編み込まれた竹に触れる。それは軽やかでありながら、どこか凛とした強さと温かみが感じられた。
「この籠なら…きっと、どんな花も引き立ててくれますね」
「…貴様なら、これに何を生ける?」
不意の問いかけに朱里は目を瞬かせる。
「私ですか?」
「ああ、茶の湯の心などと難しく考えずともよい。貴様がどう見るかが聞きたい」
試すような視線に躊躇いながらも、少しだけ考えてから朱里はゆっくりと答えた。
「……季節の花、でしょうか。今なら、山に咲いている小さな花をいくつか。あまり整えすぎずに、そのまま」
信長は思案するように一瞬黙り、それから満足げに口元を緩めた。
「悪くない。余計な作為をせず、そのまま、というのは茶の湯の理にも通じるな」
朱里が籠を抱えたまま顔を上げると、湯煙の向こうに広がる山並みが柔らかく霞んでいた。湯治場特有の硫黄の香りと、どこか懐かしい木の匂いが混ざり合い、心が解れていく。
「ならば早速、生けてみるか」
「えっ、今からですか?」
「道すがら、花売りとすれ違ったのを覚えているか?この辺りで咲く花を売っているようだった」
朱里は戸惑いながらも、小さく頷いた。
「覚えています。色とりどりの花がありましたね」
「なら話は早い。行くぞ」
信長は籠の代金を払うと、店を出て迷いなく来た道を戻り始める。その背を追いかけながら、朱里は心の中で苦笑した。
(信長様ったら…本当に、こうと決めたら一切迷いのない御方だわ)
だが、朱里は信長のそういうところが嫌いではなかった。
しばらく歩くと、先程すれ違った花売りの姿が見えてくる。小さな台に並べられた花々は、どれも山の息吹をそのまま閉じ込めたような瑞々しさがあった。
「ほぅ……」
信長は無造作にその場にしゃがみ込み、台の上の花を眺める。色とりどりの花々は、信長には名も知らぬものだった。
「どれが良い?」
そう言われて、朱里もまたその場にしゃがみ、そっと花に手を伸ばす。
「……これと、それから……こちらも」
選んだのは、控えめな白い花と、風に揺れればすぐに散ってしまいそうな小さな紫の花だった。
「それだけでよいのか?」
「はい。この籠にはこのような愛らしい花が似合う気がして」
朱里がそう言うと、信長は一瞬だけ目を細めた。