第117章 有馬にて
翌朝、朱里が目覚めると信長の姿がない。
(んっ…あれ?もう朝?信長様は…)
障子の向こうはまだ薄暗く、寝過ごしたというほどの刻限ではないようだ。宿の中も静かで、人の気配もあまり感じなかった。
「信長様…」
薄暗い部屋に一人、急に心細くなって、そわそわと支度を始めたところで廊下から足音が聞こえてきた。
「朱里?もう起きたのか?」
障子が開いて信長が入ってくる。ふわりと湯の香りがした。
「信長様!」
恋しい人の顔を見て自然と華やいだ声が出てしまった。支度の途中であったが、思わず腰を浮かせ、駆け寄りそうになる。
「くくっ…」
(久しぶりに逢ったような嬉し気な顔をしおって…)
「朝餉にはまだ早いぞ。もう少しゆっくり休んでおればよい」
「べ、べつにお腹が空いて起きたわけじゃありませんよ!信長様こそ、こんな早くからどちらに?」
「朝湯に行って来た」
そう言って、信長は朱里の前に腰を下ろす。濡れた髪からはまだ湯気がほのかに立ち昇り、湯の香りが漂っていた。
着崩した着物からほんのりと上気した肌が覗き、男らしい色気が溢れている。
「ここの湯は、なかなかに効く。疲れもよく取れるわ」
意味ありげな視線を送られて、昨夜のことが脳裏をよぎり、頬が熱を帯びる。
「そ、それはようございました。せっかく湯治に来たんですから、たくさん湯に浸かって下さいね」
「次は貴様も共にな」
頬をするりと撫でられる。信長の手は湯上がりのせいか、ほんのりと温かかった。
しばらくそうしてゆったりと寛いでいると、やがて宿の者がやって来て朝餉の支度ができたと言う。
運ばれてきた料理は、ほかほかと温かな湯気が立っていた。炊きたての白米に、焼き魚、山菜の和え物、出汁の香る汁物。素朴ながらも滋味深い献立に朱里は思わず表情を緩める。
「美味しそうですね」
「久しぶりにゆっくり飯が食えそうだな」
信長はそう言いながら箸を取る。ここしばらくは戦の後始末や何やらで目が回るほど忙しく、二人でゆっくり食事をする暇もなかったのだ。
温かな食事は心を落ち着かせ、気持ちに余裕を持たせる。
他愛もない話をしながら二人で向かい合って食べる朝餉は、身体の隅々にしみじみと沁み渡っていくようだった。
(信長様とこんなに穏やかな時間を過ごせるなんて…夢みたい)