第26章 翡翠の誘惑
「マヤ、ほれ起きんか… マヤ!」
ベテラン馬丁ヘングスト爺さんの声が飛びこんできた。
「……ヘングストさん!」
いつしかアルテミスになかば抱きつくようにして眠ってしまっていたマヤは、完全に目が覚めて跳ね起きた。
「よく眠っておったのぅ。よっぽど王都に行ったのが疲れたんじゃのぅ」
皺だらけの顔をもっとくしゃくしゃにして笑うヘングスト。
「ヘングストさんのお耳にも入ってますか…」
「もちろんじゃ。わしはこの厩舎にいながらにして耳は兵舎にも食堂にもあるのと同然じゃ。なんでも知っておるぞ」
「そうですか…」
「まぁ、気を落とすでない。そうじゃ…」
ヘングストはマヤを元気づけようと馬の話をする。
「王都の馬はこいつらと違っておったか?」
「はい…! やはり調査兵団の子たちより、背が高くて大きかったです。舞踏会に招待してくれた貴族が用意してくれた辻馬車の馬も立派でしたが、バルネフェルト公爵のご子息が手配してくれた馬車の馬がそれはもう見事な毛並みの白馬で素晴らしかったです!」
マヤは筋骨隆々とした精悍な顔立ちの白馬の立ち姿、勇ましい足取り、気品のあるいななきを思い出して、鼻息が荒くなる。
「ほぅ…。バルネフェルト公爵と縁が結ばれたのかい」
「はい。公爵にはお会いしていないのですが、ご子息に色々と助けていただいて…。ヘングストさんはバルネフェルト公爵をご存知なのですか?」
「面識はないが、わしのような一介の馬丁でもその名を知っておるのがバルネフェルト公爵じゃ。馬糞以下のような貴族が多い中でも胸襟秀麗な人物だと聞いておる」
「私は知らなかったですけど、エルヴィン団長もリヴァイ兵長もそう言っていました。そしてご子息も素敵な方でしたよ…」
レイモンド・ファン・バルネフェルトの光り輝く銀色の髪と、月光の下で煌めいていた翡翠色の瞳を思い出しながらマヤは目を伏せた。