第95章 神(しん)
追伸
原初の始祖神が、犠牲を求められている身である現実は変わりません
今回の件はそれを一時とは言え返してもらったのみに過ぎず、今もなお変わらず『命と自我と記憶』を失い続けています
そして1兆5千億年も続いてゆきます
その為
一時だけ返しただけで、一へ応えたと言えるのか
と問われれば、答えは限り無くNOに近いです
その度に返してゆくにしても
死ぬ時にならなければ、こちらまで窮地に陥らなければ、返す気は無い
無関心を装い、知らぬ存ぜぬで有り続けた過去は変わりません
今全てがあるのが当然で
誰かの犠牲によって成り立っている等、思いもしない
自分の生活さえ成り立てば、自分と関わり合いになる人達が幸せでさえいれば、目の前さえ良ければ、そんな犠牲になってる人なんてどうでもいい
自ら母体となって犠牲となってる人なんて、好きに犠牲にさせればいい
こっちは何もしないぞ
という人達がほとんどです
真実を伝えた所で良くて半信半疑、それ以外は皆信じません
信じるのは主に原初の始祖神と実在化の中枢に携わる近しい人達のみです
実際にその時以外何もしていません
されていません
自らに実害があるかどうかでしか判断されず、重要視も見向きもされていません
今回の
原初の始祖神に(わかる前わかった後、拘らず)、何かした(悪と扱い好きにした)人達へのマーカー付け(原初の始祖神へ近付けなくする目印付け(追放)、4603ページ参照)も、批判は少なからずありますが
言わば、自分が安全圏(原初の始祖神(実在化の起点)の近く)に寄れるようにしたい、いざとなれば実在化していて欲しい、守って欲しい、という身勝手な願い(生存本能)故のもの
更に言えば…
犠牲を強いている身でありながら
何もするな、身を守るな、それはこちらにとって実害だ、と求める有り様を言います
要するに…
原初の始祖神達からすれば
今後も、自我も記憶も得ず、文句(不満)も欲求(願望)も何も抱くこと無く、なんの感覚も無いまま、怒りも何も感じず、命諸共削って捧げろ、実害を与えてくるな、守れ、俺は何も悪くない、何もやらないぞ、という権化なのです
何も求められていないからと言って、何もしないのを正当化するのが世界です
よって、報われていませんという回答となります
一のみへ犠牲を強いる現状、土台、大元(おおもと)は何も変わりません
