第8章 ショコラ・エピセ
「めぐさん、誰ですかその男」
意識的にはっきりと言い直した一文、キッチンの暖色照明だけが暗いリビングを照らして、慌てた様子の彼女が焦るように言葉を発した
「塚内真さん・・っ、私が駅で出会った女性ね、」
塚内さんの妹さんだったの、気まずそうに目線を落とした彼女がちらりと俺を見上げて
あまりに唐突なネタバラシに驚きで声も出ない俺を見て、困ったように微笑んだ
「帰ってきたお兄さんが塚内さんで」
びっくりだよね、肩を竦めて微笑んだ彼女が鍋に水を張っていく
コンロの火を点ける音がパチパチと静かなキッチンに響いて
「なんで・・それを早く言わないんですか!」
「えっ、だってそれどころじゃなくて・・っ」
「勘違いして貴女に当たって・・!」
俺最低じゃないですか・・!、思っていたよりも大きな声が出て、目を丸くした彼女が驚きにまた瞬きを繰り返す
自身の身勝手でお門違いな怒りを思い出し愕然と立ち尽くすと、罪悪感と情けなさと安堵が同時にどっと溢れて声にならない声が出た
「で、でも大事な約束をダメにして、傷付けたのは本当だから」
ごめんね、そう言って思い切り下がった眉、申し訳無さそうに呟いた彼女が鍋の中に食材を入れていく
どこまでも優しいその手付き、腕まくりをした彼女の姿が少しだけ滲んだ
「・・俺ホントお子ちゃまですね」
「えっ、それまだ気にして・・っ!?」
「抱きしめていいですか」
「だ、だめに決まってるでしょう!」
指一本触れない約束だよ、可愛らしく睨んだその頬に色が差して、彷徨わせた視線が愛しくて、此処に居てくれるのが信じられなくて
「めぐさん」
「ん?なぁに?」
「めぐさん・・」
指一本分、華奢なその肩に決して触れないように隙間をあけて彼女の背後に立つと、意図を理解したその身体ががちがちに固まっていく
「ひぃ・・!」
「触ってません」
その髪に顔を寄せると香った甘い花、首だけ振り返った彼女が眉を顰め唇を噛み締めた
「約束しましたから」
「は、離れて・・!」
「離れてます、ちゃんと」
俺の理性は果たしていつまで保つだろうか、ぐつぐつと沸騰する鍋の中に踊る色を見つめながら、俺は長くなりそうなこの夜に甘い想いを馳せた