第6章 『変数る』
同じ頃。
第十三研究室で、
湯川は机に向かっていた。
「…………」
目の前には演奏会のチラシ。
読む必要は、もうない。
日時は確認した。
場所も、プログラムも。
それなのに、
机の端へ置くこともなく、
何故か、正面に置いたままにしている。
「…………」
湯川はチラシを手に取った。
出演者や部員の名前が並んでいる。
無意識に、その中から一つの名前を探す。
すぐに見つかった。
──星宮 亜希。
「…………」
確認する必要はない。
彼女が出演することは知っている。
当然だ、本人から渡されたのだから。
それなのに、名前を見つけて、
何故か、もう一度読む。
「…………」
そして、昼間の会話が蘇った。
『それ、逃げる人が使う言葉らしいですよ』
『誰が言った?』
『ゼミの友達です』
「…………」
この前の学生──。
まただ、何故。
彼の存在だけが、妙に記憶に残る。
名前すら知らないのに。
「…………」
湯川は考える。
理由、因果関係、合理的な説明。
「……彼女との接触頻度が高いからだ」
一つの結論に至る。
星宮君を観測する上で、頻繁に登場する人物。
ならば、記憶に残るのは当然だ。
「…………」
問題ない。
湯川はチラシを机へ戻した。
再び論文を開く。
数分後、手が止まる。
「…………」
再びチラシを見る。
演奏会の日付に視線を向ける。
その日、研究室の予定はない。
「…………」
湯川は手帳を開いた。
該当する日付を確認し、
空白の箇所にペンを持つ。
そして、そこへ一言だけ書いた。
──演奏会。
「…………」
数秒、その文字を見つめる。
予定なのだから、手帳へ記入する。
何も不自然ではない。
極めて合理的な行動だ。
そう考え、湯川は手帳を閉じた。