第3章 『誤差る』
「誰に?」
「湯川先生に!!」
「いやいやいやいや」
思わず笑った。
「ないない」
「なんで言い切れるのよ」
「だって湯川先生だよ?」
「だから言ってんの!!」
「意味分かんない」
「こっちの台詞!!」
友人はますます興奮している。
「だって、あの湯川先生が、経済学部の女子学生のフルートの練習に何回も現れて、吹き直した回数まで数えてんでしょ?」
「研究室まで音が聞こえるんだって」
「それで?」
「それでって」
「音が聞こえたからって普通、わざわざ本人のところまで行く!?」
「……行かない?」
「行かない!!」
「でもあの人、変人だし」
「そこまで含めて有名なの!!」
「変人なのも有名なんだ」
「そこに食いつくな!!」
友人が大きく息を吐いた。
「で、何話すの?」
「フルートのこととか」
「湯川先生、フルートやるの?」
「やらないよ」
「じゃあ何を話すのよ」
「テンポとか、指が追いつかない理由とか、練習方法とか」
「…………」
「何?」
「それもう個人レッスンじゃん」
「違うよ」
「しかも無料」
「そういう問題?」
「で、あんたは?」
「何が?」
「湯川先生のこと、どう思ってんの?」
予想していなかった質問だった。
「どうって……」
「顔いいと思わない?」
「え」
頭の中に、白衣姿の男を思い浮かべる。
背が高くて、整った顔をしていて……
確かに。
「まあ……顔は整ってると思うけど」
「顔はって」
「でも変な人だよ?」
「だからそれも有名!!」
「じゃあ合ってるじゃん」
「そういう話してないから!!」
友人が笑う。
私も、つられて笑った。
──湯川先生って、そんなに有名だったんだ。
知らなかった。
私にとっては、人の吹き直した回数を勝手に数えて、
演奏を聞いては分析して、たまに練習場所に現れて、
何でも理屈で説明しようとする、
ただの、変な物理学者だった。