第1章 第一話
ほんのわずかに間をおいて……、空気が揺らぐのを感じた。鬼道をまっすぐに見つめた彼女の瞳が細められ、たおやかに鬼道に微笑みかける。高潔な輝きに満ちた純真な眼が鬼道だけを見ていた。
「申し訳ありません。……少し、サッカー部の練習を見てみたかったものですから。練習の参考にしたくて」
微かに身震いさえしながら、鬼道は彼女の言葉を聞いていた。陸上の練習の延長線とはいえ彼女がサッカーに興味を持っている。
今の発言は本当に彼女の口から零れたものか、俺にとって都合のいい幻聴ではないだろうな……。一瞬そんなことを考え、彼女が唇にのせた言葉が誤りでないことを知る。知って、鬼道の心はより強い衝動に掻き立てられた。
――――これは。
知りもしなかった激情の波が荒れ狂う。完璧に浮かべた微笑はあの日見たものとは違い、鬼道に対する警戒を纏っているように思ったがそれでも魅力的に見えた。凛と鬼道の眼を見つめ返す彼女の姿は咲き誇る一輪の花のようだった。
控えめながらどこをとっても麗しい。これまで目にした誰よりも。そして今自分は、その花のような少女と話をしている。
胸の中に渦巻くこの気持ちをなんと呼べばいいのか。嬉しいのに胸苦しさがある。大勢の前に立つことも当然の彼が、たったひとりの少女を前に酷く緊張させられていた。カラカラに乾いた喉が続きを求めて言葉を絞り出す。
「お前の名は……、だったな」
初めて出会った日から、胸の内で何度繰り返したか分からない名前を鬼道はようやく声にする。彼女は、……は鬼道に自分の名を呼ばれて少し驚いたようだった。拾い上げたボールを持つ手が、鬼道の声を聞き微かに揺れたのが見えた。
「どうして、私の名前を……」
驚きに目を見開いたそんな表情すら……こんなにも心を揺るがす。鬼道は爆発しそうな気持ちを必死にこらえて、厳格さを取り繕って呟いた。