第1章 第一話
名前を口にするだけであの時の息苦しさを思い出す。甘美な響きが身体全体に浸透して思考が彼女の色に染まった。頼りない部屋の明かりに影が一際濃さを増す。
鬼道は胸の辺りを撫でさすりながら彼女の笑顔を思い浮かべる。絹のような艶やかな黒髪を揺らしてこちらを見つめ、柔らかく表情を緩めるの姿……。
彼女が見せたのは、想像など比較にならない魅惑的な笑顔だった。もっとその笑顔を見せてほしい。笑顔だけじゃなく他の表情も見てみたい。欲が鬼道の中で増幅する。
いつしか彼女のことを考えるたびに胸が焼け付くような熱を持つ。苦しいのにその痛みが心地よいとすら思えるから不思議だ。のことはまだ何も知らない。だからこそもっと彼女を知りたいと心が叫ぶ。
――――アイツは、俺に会いに来るだろうか。
まるで夜の星を閉じ込めたような、俺を見つめるあの眼が記憶に焼き付いている。今日のやり取りの中で、少なくとも嫌われていないようだと感じた。俺の発言に好意的な返事をし、俺の言葉一つ一つに涙さえ浮かべたように見えた。……いじらしくも。
それは鬼道の希望を反映した錯覚なのかもしれない。けれども、期待してやまないのだ。彼女に向けた願いと熱が密かに彼の心に燃え上がる。
――――俺は何をしているんだ。自分を統べる絶対君主、父や総帥の言葉に抗ってなぜ彼女と過ごす時間を願う? 兄としての使命を理解していながら、どうして他の何かに関心を抱く。
まだ春の冷たさを纏う窓に触れた。その温度に指先は冷えながらも彼の心は静かに熾火のように燃え滾る。
息を吐き、彼は夜の闇の中には散りばめられた星と麗しい月の光を眺めた。いつになく美しい月夜に彼女の面影を見て鬼道の胸の鼓動は速さを増していく。
いつでも来いと告げた、部屋を開くための番号も教えた。期待する要素はあるはずだ。だからまた顔を見せに来てほしい。俺と彼女だけが知るあの部屋に……。
彼女への好奇心を、欲を抑えきれない己の心に戸惑いながら。鬼道は瞼の裏に彼女の姿を幾度となく思い描き、繊細な望みを胸に押し抱く。
それは、あまりにもささやかで本能的な願いを。