第10章 夏油傑
【夢想】
「…おかえりなさい」
返事はない。それでもロロは、毎日そう言ってしまう。部屋の隅には、夏油が生前よく羽織っていた袈裟が丁寧に畳まれていた。香りなんて、とっくに消えているはずなのに、抱きしめるたび、夏油がそこにいる気がした。
「今日ね、桜が咲いてたよ」
誰もいない部屋で話しかける。笑われると分かっていても、やめられない。あの日、夏油は帰ってこなかった。それなのに心だけは、まだ帰ってくると信じたまま止まっている。ある夜、夢を見た。
「また泣いているのかい?」
優しい声。振り向けば、穏やかに笑う夏油がいた。ロロは何も考えず飛びつく。
「会いたかった…!」
温かい。鼓動まで聞こえる。
「もう離さないで」
震える声で言えば、夏油は少し困ったように微笑んだ。
「…私は、本物じゃない」
その一言で夢がひび割れる。景色が崩れ、夏油の輪郭が薄れていく。
「嫌、行かないで!」
必死に抱きしめる腕の中で、夏油は静かにロロの頭を撫でた。
「ロロは、生きて」
その笑顔は、最後まで優しかった。目が覚めると、腕の中にあったのは畳んだ袈裟だけ。ロロはそれを強く抱きしめ、声を殺して泣いた。抱きしめていたのは、思い出。何度願っても、本物にはもう触れられない。それでも春になるたび、桜を見るたび、ロロは少しだけ笑えるようになった。おかえりなさい、はもう言わない。代わりに空へ向かって、小さく呟く。
「…またね、傑さん」
風が花びらをさらっていく。その温もりだけは、本物だった気がした。