第8章 七海建人
【腕相撲】
七海はカップを静かに机へ置くと、ロロの期待に満ちた視線を見返した。
「腕相撲、ですか」
「1回だけ!七海さんに勝てる気はしませんけど、挑戦してみたいんです」
「…負けると分かっていて挑むのは、勇気がありますね」
少しだけ口元を緩めた七海は、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を折り上げた。鍛えられた腕が現れ、思わず息をのむ。向かい合って肘をつき、手を重ねる。大きく温かな手に包まれた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「準備は?」
「はい!」
「では、始めます」
合図と同時に全力で押し込む。
「っ…!」
びくともしない。七海は表情ひとつ変えず、ロロの力を受け止めていた。
「七海さん、本当に人間ですか…?」
「失礼ですね」
淡々と返す声に思わず笑ってしまう。それでも負けたくなくて、歯を食いしばりながらさらに力を込めた。すると、七海の眉がわずかに動く。
「…ほう」
その一瞬だけ、七海の腕が数ミリ傾いた。
「やった!」
「まだ終わっていません」
低い声とともに、押し返す力がじわじわと強くなる。まるで大きな壁を押しているようだった。腕は震え、肩が悲鳴を上げる。それでも諦めたくなくて、最後の力を振り絞る。しかし。コトン。ロロの手の甲が机についた。
「勝負ありです」
「完敗です…」
悔しそうにうつむくロロへ、七海はすぐには手を離さなかった。
「手を見せてください」
優しく指先を包み込み、痛めていないか確かめる。その手つきは驚くほど丁寧だった。
「少し赤くなっていますね」
「七海さんが強すぎるんですよ」
「いえ、ロロが最後まで力を抜かなかったからです」
その言葉に顔を上げると、七海は穏やかに微笑んだ。
「勝敗は決まりましたが、最後まで諦めなかった姿勢は立派でした」
「じゃあ、また挑戦してもいいですか?」
「もちろんです」
七海はそっとロロの頭を撫でる。
「次も受けて立ちます。ただし、そのたびにロロの成長を見られるなら、私にとっては勝敗以上の価値があります」
その優しい笑顔を見て、次こそ少しでも長く競り合おうと、ロロは密かに決意した。