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短編

第8章 七海建人


【エリーゼのために】


葬儀を終えてから、もう何度目の雨だろう。七海が住んでいた部屋は、あの日のまま時間が止まっていた。本棚も、几帳面に並んだ書類も、机の上に置かれた眼鏡も。なのに、肝心の七海だけがいない。ロロは部屋の隅に置かれた古いピアノへ近づく。以前、「昔、少しだけ習っていたんです」と照れくさそうに笑っていたことを思い出す。鍵盤に触れる。ぎこちない音で、エリーゼのために、の最初の旋律だけが流れた。

『違いますよ』

まるで七海が隣で苦笑しているような気がして、涙が滲む。任務の前日だった。「帰ったら続きを弾きましょう」そう約束した。私は「約束ですよ」と笑った。七海も、小さく笑って頷いた。その約束は、守られなかった。ロロは何度も同じ旋律を弾く。音を間違えるたびに、七海なら「焦らなくていい」と言っただろうと思う。優しい人だった。誰よりも疲れていたのに、誰よりも人を気遣う人だったのに。

「七海さん…」

返事はない。静かな部屋に、雨音だけが響く。ロロは鍵盤に涙を落とした。その時、不意に風が吹き、閉じていた楽譜がぱらりと開く。挟まっていた1枚の紙が床へ落ちた。震える手で拾い上げる。そこには、見慣れた端正な文字で、たった一行だけ書かれていた。

『次は最後まで、ロロのために弾きます』

約束を覚えていてくれた。ロロのために練習してくれていた。その事実が、何よりも苦しかった。ロロは楽譜を抱きしめ、声を殺して泣いた。最後まで聴けなかった、エリーゼのために。きっとこれから先も、誰が弾いても、あの日の続きを超える音色はない。だってあの曲は、誰のためでもない。ロロを笑顔にしたいと願った、たった一人の優しい人のための、そしてロロのためだけのエリーゼだったのだから。
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