第8章 七海建人
【正当な範囲】
「七海さん」
「何ですか」
「『左の頬を殴られたら右の頬も差し出しなさい』って言葉、ありますよね」
書類から目を離さず、七海は淡々と答えた。
「ええ。報復ではなく、暴力の連鎖を断つという教えです」
「でも、私なら」
ロロは腕を組み、真顔で言う。
「左の頬を殴られたら、両頬を殴り飛ばしますが」
七海の手が止まった。
「…そうですか」
「何か問題でも?」
静かな沈黙。やがて七海は眼鏡を押し上げ、小さく息をつく。
「問題しかありません」
「えー」
「まず『やり返す』ではなく『倍返し』になっています」
「だって腹立つじゃないですか」
「気持ちは理解できます」
「ほら」
「理解はしますが、賛成はしません」
ロロは頬を膨らませる。
「じゃあ七海さんなら?」
「必要最低限で制圧します」
「かっこいい」
「褒めても結論は変わりません」
するとロロは、悪戯心で七海の腕を軽く小突いた。七海は無表情のままロロの額を人差し指で軽く押した。
「これは指導です」
「ずるい」
「あなたも十分ずるいでしょう」
思わず吹き出す。珍しく七海も口元を少しだけ緩めた。
「もし誰かがロロを傷つけたなら、ロロが両頬を殴り飛ばす必要はありません」
「え?」
七海はネクタイを整えながら、静かに言う。
「私が対応します」
その声音は穏やかなのに、不思議と迫力があった。
「もちろん正当な範囲で、ですが」
「今ちょっと怖かった」
「気のせいです」
「気のせいじゃないですよ」
七海は小さくため息をつき、ロロの頭にそっと手を置く。
「ロロは無茶をしなくていい。倍返しは私の仕事ではありませんが、ロロを守ることはできます。」
その言葉に胸が熱くなる。
「左の頬を殴られたら、まず私を呼んでください」
「…はい」
「その後で説教です」
「えっ、私が?」
「ロロが飛び出していく未来しか見えませんから」
思わず笑うと、七海も困ったように小さく笑った。
「まったく」
その笑顔はほんの一瞬だったけれど、誰よりも安心できるものだった。