第9章 【第八話】記録者の選択
その夜。
医務室を出たあとも、あの時のラビの横顔が頭から離れなかった。
――そういうの、オレに言うなよ。
なぜ、あんな声だったのだろう。
嫌がられたのとは違う。
もっと。
触れてはいけないものへ、知らずに触れてしまったような。
寝台へ横になっても、眠りは訪れなかった。
瞼を閉じれば、林檎を持ったまま動きを止めたラビの顔が浮かぶ。
私の言葉を聞いて。
一瞬だけ、何も隠せなくなったような顔。
それから。
逃げるみたいに立ち上がった背中。
私は小さく息を吐き、身体を起こした。
このまま部屋にいる方が、余計に考えてしまいそうだった。
薄手の上着を羽織り、自室を出た。
*
夜の教団は静かだった。
石造りの廊下には、等間隔に置かれたランプの火だけが揺れている。
その灯りの向こう。
窓辺に、ひとつの影が立っていた。
赤い髪。
ラビだった。
窓の外の、厚い雲に閉ざされた夜空をただ見上げている。
いつもの彼なら、こんな時間に一人でいることなどないように思えた。
誰かをからかい、軽口を叩き、笑い声の中心にいる。
それが、私の知っているラビだった。
けれど今、窓辺に立つ彼はひどく静かだった。
軽口も、人懐こい笑みも、そこにはない。
ランプの淡い光が、横顔の輪郭だけを照らしている。
その表情は、どこか遠く。
まるで。
誰も見ていない場所でだけ、本当の顔に戻っているみたいに。