第9章 【第八話】記録者の選択
その夜。
寝台へ横になっても、眠りは訪れなかった。
――そういうの、オレに言うなよ。
嫌がられたのとは、違う気がした。触れてはいけないものへ、知らずに触れてしまったような。
瞼を閉じれば、林檎を持ったまま動きを止めた顔と、逃げるみたいに立ち上がった背中が浮かぶ。
私は小さく息を吐き、身体を起こした。このまま部屋にいる方が、余計に考えてしまいそうだった。
薄手の上着を羽織り、自室を出る。
夜の教団は静かだった。石造りの廊下には、等間隔に置かれたランプの火だけが揺れている。
その灯りの向こう、窓辺に、ひとつの影が立っていた。
ラビ、だ。
厚い雲に閉ざされた夜空を、ただ見上げている。
軽口も、人懐こい笑みも、そこにはなかった。ランプの淡い光が、横顔の輪郭だけを照らしている。
誰も見ていない場所でだけ、本当の顔に戻っているみたいだった。
――ラビ。
声をかけようとして、足が止まった。
昼間、私が言葉を向けた時と同じ顔だった。何かを抱え込んで、それをどう扱えばいいのか分からないような。
今声をかけても、きっと彼は、いつものように笑って誤魔化す。
私はそっと踵を返し、来た道を戻った。
赤い髪が視界から消えたあとも、昼間の棘は刺さったまま抜けなかった。