第37章 格闘訓練
「だから、まず」
ユカリが人差し指をすっと立てて微笑んだ。
「殴らない」
「……え?」
その言葉に、切島は完全にフリーズした。
「あの、ユカリ先輩?これ、格闘の訓練……ですよね?」
切島が恐る恐る尋ねる。
「うん、そうだよ」
「殴らないんすか?」
「うん、殴らない」
「なんでですか……?」
「殴る前に、もっとやることがあるから」
ユカリはにっこりと笑った。
だが、その笑顔の裏にある絶対的な説得力に、切島は背筋が少し寒くなるのを感じた。
少し離れた端のほうでは、環が哀れみの目を向けながら小さく呟く。
「……始まった」
「始まったねー!」
ねじれが深く頷く。
ミリオもかつてユカリと手合わせした日を思い出したのか、遠い目になっていた。
「生きて帰って来るんだ、切島くん……」
切島だけが、そのやり取りの恐ろしい意味を理解できずに一人取り残されていた。
***
十分後。
切島は、その身を以て先輩たちの言葉を理解することになる。
「はぁっ!はぁっ!はぁっ……!」
切島は訓練場の床を、猛烈な勢いで四方八方に駆け回っていた。
ひたすら泥臭く走り続けている。
前へダッシュしたかと思えば、ユカリの短い指示一つで即座に真横、後ろ、斜めへと方向転換。
急停止からの猛ダッシュ。
「もっと低く!」
「はい!」
「重心ぶれてる!」
「はい!」
「足の裏全体で床を捉えて!」
「はい!」
切島は必死だった。
すでに全身汗だくで、呼吸も激しく乱れている。
だが、未だに拳は一度も振り抜いていない。
一発も殴らせてもらえていないどころか、構えさせてすらもらえないのだ。
「ユカリ先輩ぃぃ!!」
限界が近い足に鞭打ちながら、切島が叫ぶ。
「ん?」
「これ……ホントに、格闘技ですかっ!?」
「格闘技だよ!」
ユカリは爽やかな笑顔で答えた。
切島は肉体の疲労と、想像を遥かに超えた地味さに、少しだけ泣きそうになりながら再び地を蹴った。