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【呪術廻戦/短編集R18】夜更けの花屋は恋を売る

第3章 【伏黒恵】君に響くカンパニュラ**


私は、本当のお母さんとお父さんの顔がわからない。


覚えているのは、人の顔じゃないもの。

顔は女の人に似ていた。
長い黒髪はいつも濡れていて、白い頬には血の気がなかった。

でも、笑うと口が大きく裂けた。
私を抱く腕は人の腕みたいで、どこか鳥の翼みたいでもあった。


湿った獣のような匂い。
ぬるい乳の味。
骨を噛み砕く音。

あれが私の髪を撫でる時、爪の先が皮膚に引っかかったこと。
あれが笑う時、人の声に鳥みたいな音が混ざったこと。


あれは私を食べなかった。
殺すこともしなかった。

お腹が空けば、何かを与えた。
寒ければ、私を巣の奥へ押し込めた。
眠る場所も、体を包むものも、ちゃんと用意していた。
眠れない夜には、低く喉を鳴らして子守歌のようなものを聞かせた。


それが優しさだったのか、飼育だったのか。
今でも私にはよくわからない。

だから私は、あれを母親だと思っていた。
お母さん、という言葉は知らなかったけど。

怖いものだとは思わなかった。
怖い、という感情さえ、たぶんまだ知らなかったんだと思う。


あれは私を抱いたまま、人間の言葉ではない音で何度も何度も同じことを囁いた。



『外の恐ろしいものから、お前をずっと守ってあげる。ここで生かしてあげる』

『だから、代わりにお前の声を私にちょうだい』

『約束を破って、その声で誰かを呼んだら、お前のいちばん大切なものを食べてあげる』

『肉も』

『骨も』

『泣き声も』

『全部だよ』



あの頃の私は、それを何の疑いもなく受け入れた。
だって、私にとってはあれが世界の全部で。
あれの冷たい腕の中だけが、私が生きられるたったひとつの場所だったから。


だから私はあれの首に細い腕を回して、自分から頷いたのだ。
その瞬間、喉の奥に見えない硬い結び目ができたような気がした。


ただの約束だと思っていた。
それが、絶対に破ることのできない『縛り』だとも知らずに。
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