第3章 【伏黒恵】君に響くカンパニュラ**
私は、本当のお母さんとお父さんの顔がわからない。
覚えているのは、人の顔じゃないもの。
顔は女の人に似ていた。
長い黒髪はいつも濡れていて、白い頬には血の気がなかった。
でも、笑うと口が大きく裂けた。
私を抱く腕は人の腕みたいで、どこか鳥の翼みたいでもあった。
湿った獣のような匂い。
ぬるい乳の味。
骨を噛み砕く音。
あれが私の髪を撫でる時、爪の先が皮膚に引っかかったこと。
あれが笑う時、人の声に鳥みたいな音が混ざったこと。
あれは私を食べなかった。
殺すこともしなかった。
お腹が空けば、何かを与えた。
寒ければ、私を巣の奥へ押し込めた。
眠る場所も、体を包むものも、ちゃんと用意していた。
眠れない夜には、低く喉を鳴らして子守歌のようなものを聞かせた。
それが優しさだったのか、飼育だったのか。
今でも私にはよくわからない。
だから私は、あれを母親だと思っていた。
お母さん、という言葉は知らなかったけど。
怖いものだとは思わなかった。
怖い、という感情さえ、たぶんまだ知らなかったんだと思う。
あれは私を抱いたまま、人間の言葉ではない音で何度も何度も同じことを囁いた。
『外の恐ろしいものから、お前をずっと守ってあげる。ここで生かしてあげる』
『だから、代わりにお前の声を私にちょうだい』
『約束を破って、その声で誰かを呼んだら、お前のいちばん大切なものを食べてあげる』
『肉も』
『骨も』
『泣き声も』
『全部だよ』
あの頃の私は、それを何の疑いもなく受け入れた。
だって、私にとってはあれが世界の全部で。
あれの冷たい腕の中だけが、私が生きられるたったひとつの場所だったから。
だから私はあれの首に細い腕を回して、自分から頷いたのだ。
その瞬間、喉の奥に見えない硬い結び目ができたような気がした。
ただの約束だと思っていた。
それが、絶対に破ることのできない『縛り』だとも知らずに。