第7章 【五条悟・伏黒恵】クロユリは君を離さない**
それでも、もうそこには伏黒くんがいて。
先生と私だけの特別な世界が、徐々に変わり始めている。
伏黒くんは何も言わなかったけど、いつもきゅっと結ばれている口元がわずかに緩んだのが見えた。
笑ったわけじゃない。
私の言葉を聞いて、ほっとしたような。
ずっと待っていたものを、やっと少しだけ受け取れたような。
そんな顔に見えた。
伏黒くんのこんな顔、初めて見た。
こんなふうに私の一言で表情を変える伏黒くんを、もう少し見ていたくなる。
伏黒くんが私の手首を離した。
その手が腕を伝って上がってきて、私の頬にかかった髪を耳にかける。
「……、好きだ」
近づいてくる伏黒くんを見ているうちに、瞼が自然と下りていく。
本当は私も、伏黒くんとキスしたかったのかもしれない。
それって――。
そう思った時にはもう、伏黒くんの唇が重なっていた。
腕の中に抱えていた本が、するりと抜け落ちる。
ぱさっと、廊下に乾いた音が響いた。
それを拾う余裕なんてなかった。
一度離れた唇がまた重なる。
わずかに顔を傾けられて、さっきよりも深く。
ただ触れるだけだった最初とは違って、少し強引に。
何度も角度を変えながら、隙間を埋めるように押し当てられる。
「ん……っ」
重なった唇の端から、息が漏れた。
頬に触れていた伏黒くんの手が、後ろ髪へ回る。
指先が髪の間に滑り込んで、私を求めるみたいに後頭部を引き寄せられた。
「……」
名前を呼ばれて、薄く目を開ける。
先生とは違う、深い緑色の瞳。
その目を見ていると、今度は逸らしたくないと思った。
「……伏黒くん」
呼び返した途端、伏黒くんが私の手を取った。
「こっち」
その一言に促されるまま、私は伏黒くんの部屋へ入った。
扉が閉まる寸前、廊下に落ちたままの本が視界の端に映る。
半分だけ開いたページが、扉の動きで起きたわずかな風に揺れた。
ぱらり、と一枚だけ捲れる。
その音を最後に、廊下の景色が細い線みたいに閉じていった。