第5章 【五条悟】勿忘草の悪魔 II**
五条さんがこちらに近づいてくる足音が聞こえて。
気づいた時には、身体が勝手に動いていた。
助けなきゃいけないはずなのに。
私はその淫魔を置き去りにして、裏路地から駆け出していた。
どこをどう走ったのか、よく覚えていない。
息が切れて、足がもつれそうになって。
ようやく立ち止まったのは、大通りのネオンが眩しい、人通りの多い交差点だった。
コンビニの看板も、居酒屋から聞こえる笑い声も。
通り過ぎる人たちの話し声も、どこか遠くに感じる。
彼女は、どうなったんだろう。
あのまま、五条さんに祓われてしまったのだろうか。
助けなきゃいけなかったのに。
そう思うのに、足はもうあの場所へ戻ろうとはしてくれなかった。
カバンの中からスマホを取り出し、画面に先輩の連絡先を表示させる。
『先輩、どうしよう。契約者さんが――』
そこまで打って、指が止まる。
もし、さっき見たことを先輩に言えば、五条さんのことは会社に報告される。
私の専属契約は、無効になるかもしれない。
そうしたら、私はまた会社に戻されて。
違う契約者さんの元に派遣されて――。
スマホの画面にぽたりと涙が落ちて、『契約者さん』の文字が滲んで見えた。
(なんで、私泣いてるんだろ……)
あの淫魔の悲鳴が、まだ耳に残っているから?
路地裏で倒れていた男の人の顔が、頭から離れないから?
それとも。
五条さんとの契約が切れるのは嫌だなんて、思ってしまったから?
「……ばか、だなぁ、私……っ」
送信ボタンを押せないまま、私は画面を消した。
もう一度、歩き出す。
行く場所なんて、どこにもないのに。
会社にも戻れない。
先輩にも言えない。
かといって、人間の街で一人きりで夜を明かす勇気もない。
どれだけ歩いても、足は勝手に知っている道を選んでいた。
結局、私は五条さんの部屋の前に立っていた。
どうしてか、この扉の前に立つと少しだけホッとしてしまう自分が恨めしい。
(五条さん、まだ帰ってないといいな……)
深呼吸をして、ドアを開ける。
(……あ)
暗いと思っていたリビングから、オレンジ色の明かりが漏れていた。
おそるおそる廊下を進み、リビングを覗き込む。