第3章 【伏黒恵】君に響くカンパニュラ**
「別に……普通だろ」
普通じゃない。
私はぶんぶんと首を振って、もう一度ノートに書く。
『かっこいい』
今度こそ、恵くんは完全に顔を背けた。
首まで赤くなっているのが見える。
「……そういうのじゃなくて。他には、ないのかよ」
恵くんはコーヒーのカップをベンチに置いて、こちらに向き直った。
それから、真っ直ぐに私を見る。
「……あの時、本当は何て書こうとした?」
あの時……それって。
手のひらに書いた『す』の一文字。
最後まで書けなくて。
逃げるみたいに『し』を書き足した、あの倉庫でのこと。
恵くん、やっぱり気づいていたの?
あれが本当は、お寿司なんかじゃなかったことに。
そのことに気づいた途端、世界の音が遠くなっていく。
風が木の葉を揺らす音も。
公園で遊ぶ子どもの声も。
ドリンクの氷がカランと鳴る音も。
全部、遠くへ消えていく。
世界に私と恵くんしかいないみたいに感じる。
恵くんの深い翠色が、私が何を書くのかをじっと待っていた。
そんな目で見ないで。
そんな目で見られたら、私……。
本当は。
本当は、ね。
恵くん、私は……――。
その時、ブーッと低い振動音が響いた。
ベンチの上に置いてある恵くんのスマホが、震えている。
画面に表示されていた名前は、五条先生だった。
恵くんの眉間に、わずかに皺が寄る。
「……」
出るべきか、無視するべきか。
迷っているのが、すぐに分かった。
私はスマホを指差して、耳に手を当てる仕草をする。
(出た方がいいよ)
そう伝えると、恵くんは一瞬だけ迷ったあと、小さく息を吐いた。
「……悪い。すぐ戻る」
そう言って、ベンチから立ち上がり、私から少し離れた木陰まで歩いていく。
私はそれを見届けて、オレンジジュースのストローに口をつけた。
ちゅう、と冷たい甘さを吸い込む。