第3章 【伏黒恵】君に響くカンパニュラ**
恵くんが私の指の動きを目で追いながら、かすかに眉を寄せた。
「……す?」
心臓が、どくんと大きく鳴る。
今、恵くんが読んだ。
私が書いた文字を。
私が、書いてしまった文字を。
書いちゃった。
書いちゃったよ。
あと一文字。
あと一文字だけ、書けば……。
恵くんに、私の気持ちが届いてしまう。
十年かけて隠してきたものが、形になってしまう。
もし、恵くんも同じ気持ちだったら。
恵くんとキスできるかもしれない。
恵くんの隣に、家族じゃない形でいられるかもしれない。
でも。
同時に、彼を呪いに差し出してしまうかもしれない。
指先が震える。
どうしても、動かない。
「?」
続きが書かれないことに気づいたのか、恵くんの視線が私の指先から私へ移る。
ばれた?
今、私が何を書こうとしていたのか。
恵くん、気づいた?
まだ一文字だけ。
まだ、ただの『す』だ。
わかるわけない。
早く、書かなきゃ。
三回指を動かせば、『き』。
き。
き。
き……。
ごくりと唾を飲み込んで、指をゆっくりと滑らせた。
「……し?」
恵くんが、不思議そうに首を傾げている。
最後の最後で、逃げるように別の形を描いてしまった。
私のばか……。
いくじなし。
「……すし?」
私はこくんと頷いた。
違う。
違うけど。
今はもう、それでいい。
「寿司……食べたい、のか?」
そうじゃない。
そうじゃないけど。
今は、恵くんがそう受け取ってくれたことに、心の底からほっとしていた。
「……今度、りっぱずし行くか」
そう言って、恵くんは私の手首をそっと離す。
それから、自分の手のひらを一度だけ見下ろした。
私が『す』と『し』を書いた、その場所を。
ほんの少しだけ、考えるように。
「……、本当は――」
何かを言いかけて。
でも結局、何も言わずに顔を逸らした。
すると、扉の向こうで、がたんと物音がした。