第3章 【伏黒恵】君に響くカンパニュラ**
「……おい」
恵くんのもう片方の手が伸びてきて、私の左手首を軽く掴んだ。
「くすぐったい。何書いてるか全然わかんねぇよ」
文句を言うような口調だったけれど、その声は少しも冷たくなかった。
手首を掴む指先から、恵くんの体温が伝わってくる。
(そういうところだよ)
どうしてこの人は、いつもこうなんだろう。
私がどんなに情けない姿を見せても。
呆れた顔をしながら、最後には必ず手を伸ばしてくれる。
これ以上、優しくしないで。
期待しちゃうから。
恵くんの特別になりたいって、思っちゃうから。
漫画の中では、この後気持ちを伝えて。
キスをして。
それから、もっと深く触れ合っていた。
もし、今ここで。
私が気持ちを伝えたら。
恵くんも、私を見てくれるのかな。
私のことを家族じゃなくて、女の子として。
『好きの二文字書くだけで、全部ハッピーエンドになるわよ』
野薔薇ちゃんの声が、頭の中で蘇る。
好きの二文字。
それだけで、本当に全部変わるのだろうか。
私は恵くんの手のひらを見つめた。
ここに書けばいい。
ノートじゃなくても。
声じゃなくても。
この手のひらに、あの二文字をなぞればいい。
『す』
『き』
昨日の夜、ノートの真っ白なページに書きかけて。
怖くなって、真っ黒になるまで塗りつぶして閉じ込めたはずの言葉。
(だめだよ)
わかっているのに。
紙の上でなら抑え込めたはずの感情が、恵くんの手に直接触れているせいで溢れ出そうになる。
気づけば、恵くんの手のひらにあの軌道をなぞっていた。
横に線を引いて。
縦に下ろして。
くるりと、円を書いて。
『す』
あ、と思った時には遅かった。
たった一文字。
それだけを書いたところで、自分のしてしまったことに気づく。