第10章 霧の屋敷の裏側
「…………断る」
ミルキは即答した。
机いっぱいに広げられた暗号文書から視線すら上げない。面倒ごとを払い除けるように羽ペンを走らせ続けている。
イルミはそんな弟の背を見下ろしながら、乱雑に本が積まれた長椅子の背へ寄りかかる。
「勿論タダでとは言わない。近々、オペラをやることになったんだ。その収益を半分渡す代わりに、ライネル=ヴェルハイトの裏を探って欲しい」
「嫌だね。絶対やりたくない」
「ミルキは、ニナの婚約に賛成なの?」
「……ライネル=ヴェルハイトは、公爵家に生まれただけじゃない。やり手の実業家だ。ニナの婚約相手として条件は悪くない」
ミルキはそこでようやく顔を上げた。
「少なくとも……ウチと敵対するよりはよっぽど現実的だろ」
「でも、叩けば埃くらい出てくるでしょ」
「それはこの世界にいれば誰だって同じだ」
ミルキは露骨に嫌そうな顔をする。
「イル兄は何だってそんなニナの幸せを邪魔したいんだよ」
「ニナの幸せ?」
イルミは僅かに首を傾げた。
「なにそれ」
「そりゃそうだろ。公爵家に嫁ぐんだから普通に考えたら――」
「くだらないこと言うね、お前も」
イルミは弟の言葉を遮る。
淡々としていた。怒っているというのでもない。ただ本気で興味がない声だった。
「そんなの、俺の知るところじゃない」
「…………」
ミルキは眉を寄せる。
イルミが面倒なのは昔からだ。だが最近は特に酷い。
仕事や音楽のことなら合理的に動く癖に、ニナのことになると、どうもロジックが掛け違えて見える。
「イルミ…………ニナのこと実際どう思っているの?」
「うーん」
イルミは腕を組み視線を天井へ向けた。
指先が肘の辺りを軽く叩く。
「よく分かんないけど……」
しばらく考えるような間があった。
「ニナが公爵家に行くの、ムカつくんだよね」
「…………」
ミルキの背筋に薄く嫌なものが走る。
イルミ自身、自分の感情を整理できていないのだろう。それが一番危険だった。
「壊したくなる」
「え……」
ミルキは思わず言葉を失う。