第9章 彼は遊女の彼女を手放したくない 【鬼滅の刃 不死川実弥】
藤の花の香りが穏やかに漂う深夜の屋敷は、本来なら深い静寂に包まれているはずだった。
布団の中で微かな物音を聞きつけたいのりは、跳ね起きるようにして身を起こした。
(今の音……不死川さん? でも、こんな時間に帰ってくるなんて……)
不死川から「夜は鬼が出るから、不用意に部屋を出るな」ときつく言われていたが、怪我でもしたのではないかという不安が勝った。
彼女は行灯を手に、慌てて彼の部屋へと向かった。
不死川の部屋の前に着くと、中から獣が唸るような、低く苦しげな吐息が漏れ聞こえてきた。
「……不死川さん? お怪我をされたのですか? 入りますよ」
「……来るなッ! 部屋に入るんじゃねェ!!」
襖越しに飛んできたのは、これまでに聞いたこともないような、切迫した怒号だった。
驚きで肩を震わせながらも、彼女はその声の異様さに、ただ事ではないと確信した。
「でも、凄く苦しそうです。手当をさせてください!」
彼女が意を決して襖を開けると、そこには床に膝をつき、肩を激しく上下させる不死川の姿があった。
顔は耳の裏まで真っ赤に染まり、額には大粒の汗が浮かんでいる。
その瞳は潤み、いつもの鋭い眼光はどこか熱に浮かされたように混濁していた。
「不死川さん……っ!」
「……近寄るなっつってんだろォが……ッ! 聞こえねェのか!!」
駆け寄ろうとする彼女を、不死川は激しい言葉で制止した。
畳を掴む彼の指先は、爪が食い込むほどに白く震えている。
「っ……ごめんなさい……。でも、お顔が、そんなに赤くて……」
「……チッ、……鬼の血気術だ。首はねじ切ってやったが……毒を食らった……」
「毒!? すぐに御医者様を――」
「……いい……これは、そういう毒じゃねェ……」
不死川は自らの腕を強く噛み、正気を保とうと必死に理性を繋ぎ止めていた。
その毒は、身体の傷を増やすものではなく、本能を、情動を、そして抑え込んでいた獣のような欲情を強制的に引き出す「媚薬」の類だったのだ。
「……身体が、火照って……。頭の中が、ぐちゃぐちゃなんだよォ……。いいから、テメェは自分の部屋に戻って……鍵をかけて寝てろ……っ」
「そんな……お一人で苦しむのを放っておけません! 私にできることがあれば……」
「……ねェよ。……テメェに、そんなこと、させられるかよ……っ」
