第31章 出会った男、不穏な気配
「…そろそろ行かないと。この後、約束があるんです」
そっと玄関を出る。
さっきまで滝のように降っていた雨は、いつの間にか止んでいた。
アスファルトに残る水の匂いと、静けさ。
それだけが、この出来事が確かに現実だったと教えてくれる。
「……」
歩き出してから、ふと後ろを振り返った。
事務所の前、軒先の下に立つ治崎の姿。
治崎は何も言わず、ただこちらを見ていた。
その目の奥に何があるのか、にはわからない。
ただ、どこか深い闇の底を覗いたような、そんな気がした。
(なんだったんだろう…)
不思議な感じがした。
触れた手のぬくもりよりも、その奥に潜んでいた“何か”が、心に引っかかって離れない。
あの人は、きっと優しい人なんかじゃない。
小さく息を吐いて、湿った髪を耳にかける。
雲の切れ間から一筋の光が差し込み、の頬を照らした。
その光に導かれるように、は足を前に出す。
もう振り返らない。
そう決めて、約束の場所へと歩き出した。
だが、背中にまだ残っている。
さっきまで感じていた、あの胸の鼓動の名残が。
それが不安なのか、恐れなのか、自分でもまだわからなかった。
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約束の場所までは、思ったより近かった。
道端の水たまりを避けながら歩いているうちに、曇り空の向こうで光が少しずつ強くなっていく。
雨上がりの空気は澄んでいて、街がまるで息を吹き返したように輝いていた。
大きなビルの一角に見えた、久しぶりに会う人の事務所。
は小さく息をつく。
昔のことが脳裏によぎる。
彼の声もまた、忘れられないものだった。