第31章 出会った男、不穏な気配
は動かず、ただ静かに見つめ返していた。
怯えるでもなく、拒むでもなく。
その穏やかな瞳が、治崎の中の“何か”をさらに揺らしていく。
もっと確かめたくなる。
この感覚が本物なのか、ただの錯覚なのか。
ゆっくりと、もう片方の手も伸びた。
濡れた髪を指先でそっと払い、頬の輪郭をなぞる。
「……っ」
言葉はない。
ただ、心臓の鼓動が互いの間でかすかに響いていた。
治(壊したいわけじゃない……ただ、確かめたい)
気づけば、治崎はそのままを胸元へと引き寄せていた。
まるで、触れた温もりを手放したくなかったかのように。
「……え?」
驚きの声がかすかに漏れたが、押し返す力はなかった。
の頬が治崎の胸に触れ、濡れた髪が服に張りつく。
雨音が遠ざかり、世界が静かに凍りついたように感じた。
治「……なぜ、君にだけ……」
その呟きは、ほとんど自分に向けたものだった。
は治崎の胸に顔を寄せたまま、小さく息をつく。
「…廻さんの手、すごくあたたかいですね」
その言葉に、治崎の指先がわずかに震えた。
何かを言いかけたように唇が動いた。
けれど、言葉は出なかった。
代わりに、ほんの一瞬だけ。
治崎の唇が、のこめかみに触れた。
触れたのか、風が通ったのか。
そんな曖昧さの中で、はただ瞬きをする。
そのまま、治崎は息を飲み、顔をそらした。
胸の奥で、理性がかすかに軋む音がした。
治「…すまない」
小さく、それだけ。
は何も返さず、ただ静かに首を横に振る。
「…いえ」
その瞬間が夢だったのかどうか、確かめる術はない。
一拍の静寂。
やがては、そっと治崎の腕の中から身を引いた。