第26章 猫舌の君にはまだ早い《前編》◉天喰環
沈丁花の香りを乗せた風が、図鑑のページをパラパラと捲る
あまりの静寂に耐えきれず視線を上げると、顔を隠すように机に突っ伏した彼女の耳が赤く染まっていた
「あ・・頭を抱えるほど不快・・!申し訳ない・・!」
これ以上迷惑をかけては駄目だ、一刻も早く立ち去るんだ、じりりと一歩下がると視界に入った本の山、机上に積まれた背表紙の文字に心臓がどくんと音を立てる
彼女の専門は薬学、卒業後は資格取得のため東京の学校に進学すると波動さんが言っていた
世に出回っている薬の事典はもちろん、野草や花々、何冊も積み上げたそれらを君はいつも真剣に読み込みノートにまとめて
———病気を治す、私も誰かのヒーローになりたいんだ
天喰くんに負けないように私も頑張らなきゃ、照れ臭そうにページに視線を落とす君に、何度力を貰ったことか
「でも、そ・・っちの本は」
もしかしたら、なんて俺らしくない、渦巻いた淡い期待と恐怖が鬩ぎ合い、その先に待つ羞恥と絶望を容易に想像できる、でも、
医療関係の書籍に挟まれるようにして積まれていたのは「食べられる生き物事典」「あの動物のすごい能力」「一番強い水中生物」———
顔が熱くて湯気が出そうだ、どれも見覚えのあるものばかり、
情けなく赤くなっているであろう顔を両手で隠しながら何とか声を絞り出した
「そっちは、君の・・専門じゃない・・」
発した途端、バッと弾かれたように顔を上げた彼女が慌ててその数冊を抱えて
気まずそうに泳ぐ潤んだ目、伏せられるとその視線が俺の足元に落ちる
「天喰くん、もう来ないかと思ったの・・!」
卒業したら会えなくなると思うと寂しくて、天喰くんがよく読んでた本最後に読もうかな、って
ぱちぱちと繰り返される瞬きが彼女の動揺を物語っている、さらりと落ちた髪を耳にかけると色付いた頬を隠すように彼女が顔に手を当てた
「だから来てくれて嬉しい・・、ありがとう」
震える声で紡がれた言葉に体が更に熱を持っていく、信じられなくて、嬉しくて、息をするのがやっとだ
それなのに
「・・私の方が、先に好きだったよ」
大阪でも頑張ってね、サンイーター、
微笑む彼女の頬に一筋流れたそれが、ぽたりとカーペットに小さな染みを作る
彼女に初めて呼んでもらえたヒーロー名は、通じ合えた筈の心を分断するように響いた
