第118章 青い花の秘密
「朱里」
名を呼ばれ、はっとして後ろを振り返ると、信長は聴衆を見据えたまま余裕の笑みを浮かべていた。
「笑え」
「は、はい」
(いけない…皆の前では晴れやかな顔でいないと)
無意識に物想いに耽っていたのか、俯いていた顔を慌てて上げる。
にっこりと笑って見せると、集まった人々から、わぁっと大きな歓声が上がる。
「それでよい」
短い言葉とともに僅かに腰を引き寄せられる。背中越しに伝わる信長の体温が、何より心強かった。
兵達の隊列を確認し終わった秀吉が、自身も騎乗のまま信長の方へと馬を寄せる。
「御館様、京へと続く街道沿いの警護は予定どおり配置しております。先行する物見の兵からも異常はないとの知らせです」
「光秀は?」
「既に京へ入ったと知らせが。此度の宿所である本能寺の周辺で怪しい者の気配がないか調べているでしょう」
信長は鼻で笑う。
「彼奴なら抜かりはないだろう」
信長の言葉を聞いた政宗が肩を竦めてからりと笑う。
「俺も京へ行けりゃ面白かったんだがなぁ」
「貴様には大坂の留守を守ってもらう。留守居も大事な役目だ」
「分かってますよ」
政宗は苦笑すると、朱里へ視線を向ける。
「朱里、あんまり気負わずに行けよ」
「ありがとう、政宗」
穏やかに微笑み返した、その時だった。
信長の腕が朱里の腰を強く抱く。
「出立だ」
低く響く声とともに、愛馬がゆっくりと歩き出した。
城門が開かれ、人々が左右へさあっと道を空ける。
「信長様!」
「道中お気を付けて!」
「お早いお帰りをお待ちしておりますよ」
歓声と見送りの声が次々と飛び交う。
朱里は小さく会釈を返しながら、人垣へと目を向けた。
その中に、一人だけ拍手もせず、微動だにしない男がいた。
深く笠を被り、その表情は見えない。
その男は馬上の信長には目もくれず、信長の馬の後ろを進む荷車に積まれた漆塗りの長持を、じっと見つめていた。
長持には、帝への献上品である青い硝子の花が納められている。
そう、誰もが信じていた。
男は長持に鋭い視線を向けていたが、やがて一瞬だけ口元を歪めると……人混みに紛れるように姿を消した。
その様子を見逃さなかった信長の唇に僅かな笑みが浮かぶ。
「……早くも餌に食いついたか」
その呟きは、人々の歓声に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。
