第4章 心の縁-よすが-《前編》
「名を教えてはいけない。絶対にだ。それを覚えておけ」
「うん!」
屈託のない笑顔で答えるあんずに、本当に理解しているのか不安を覚えた大倶利伽羅だったが、それ以上は何も口にしなかった。
それから、少し経ったある日のことだった。あんずは池の縁にちょこんとしゃがみ込み、小さな手で餌を握りしめて鯉に向かって投げていた。
水面がぱしゃぱしゃと音を立てるたびに楽しくなって、つい身体が前に傾く。
「えい」
もう一度——そう思った瞬間、足元がつるりと滑った。
「……っ」
声を上げるより早くふわりと身体が浮く。次の瞬間、抱き上げられていることに気付く。
「危ないだろう」
低く短い声。けれど、その腕は驚くほどしっかりしていてあんずを守るように抱きかかえている。小さな身体を胸に抱えたまま、大倶利伽羅は池から少し離れた場所まで下がり、ゆっくりと地面に下ろした。
「…落ちるところだった」
そう言ってから彼は一瞬こちらを見下ろす。金色の瞳がいつもより少しだけ厳しくて、でもどこかほっとした色をしていた。
「池は駄目だ。一人で近づくな」
叱るような言葉なのに、声は静かで強くない。そして、大倶利伽羅は何も言わずに池の縁に立ち、餌を受け取ると代わりに鯉へ投げた。