第29章 カモミールの庭で
「イルザ、何しけた顔してんだ。びっくりしすぎて腰が抜けちまったか?」
ふざけた調子で話しかけてくるレイの言葉に、わずかに肩を揺らしただけでイルザはいまだテーブルの一点を見つめて動かない。
「あっ、そうだ。あの絵を見てみろよ。カインいるだろう? グロブナー家の。あいつの描いた絵なんだ」
思いがけない貴族の名前が出てきて、反射的にイルザは白い壁に飾られている大きな一枚の油絵を見た。
それは茶摘みの光景を描いた、印象的な風景画。
なだらかな丘を茶の葉の濃い緑が覆う。遠景には青く高い山並みに白い雲が流れている。
茶畑の真ん中に描かれている背の高い女性は、一心不乱に手許の葉を摘んでいる。背中には麦わら色の大きな籠。真っ白なカーディガンを羽織り、頭には目の覚めるような真紅の布を巻いている。
「……素晴らしい絵ね」
緑の中に浮かぶ白と赤が、イルザの心に強烈なインパクトを与えた。
「あぁ、最高だよな」
「私もこの絵が好きです」
マヤもカインの描いた絵が好きだとイルザに伝える。
「茶摘みの風景なんて紅茶が好きな私やマヤさんにぴったりね」
大好きな紅茶に関係している美しい油絵のおかげで、イルザに笑顔が戻った。
「良かった…!」
「あぁ、やっとだな」
マヤとレイが顔を見合わせて喜んでいる。席が向かい合わせでなく隣同士ならば、きっと手を取り合っていただろう。
「………?」
イルザにはなんのことだか全くわからない。
「何が “やっと” なの?」
「イルザさんが笑ったからですよ」
「せっかくリックの店に連れてきたってぇのに、浮かねぇ顔してるから心配するだろうが」
「……そんな顔してた、私?」
「ええ。このあいだアマンダさんと三人でお昼をいただいたときにリックさんの話を嬉しそうにされていたから、ここにお連れしたら絶対に喜ぶと思ったんです。でもイルザさんは喜んでいるようには見えなくて…」
「喜んでいるわよ、ただ驚いているだけ…。まだ混乱しているわ」
イルザは少しずつ自分を取り戻しているようだ。深呼吸をしたかと思うと、まっすぐにマヤを見つめて訊いてくる。
「ねぇマヤさん。どうして王都でリックの店を知っていると教えてくれなかったの…?」