第29章 カモミールの庭で
「もうあれから…、時は流れたけれど…。でも私の中では今でも輝いているのよ、ここで」
イルザは自身の左胸にそっと手を当てた。ちょうど心をこめて刺繍したカモミールの花のところだ。
……あっ、もしかして劇場での思い出は、リックさんとの…!
確かリックさんが言っていたはず…。
“お屋敷の外で、ただ一度の逢瀬を遂げたことがあります。それは王立劇場での観劇でした”
そうよ、絶対そうだわ…!
マヤが確信して心の中で大きく叫んでいると。
「イルザ、劇場はこの街にはねぇから買い物のつづきをしよう。……で、そのあとに紅茶でも飲むか」
レイが計画を進めるべく、誘導している。
「そうね。じゃあマヤさんの髪留めを売っているお店に行きたいわ」
「えっ、これですか?」
思わず髪留めに手をやるマヤ。
訓練のとき、任務のときにはいつも、長いまっすぐな髪を後ろで一つに結っている。決して邪魔にならぬよう、華美にならぬよう髪留めには細心の注意を払って地味で目立たないものをチョイスしていた。だがやはり多少の女心は捨てられず、遠目では全然わからないが近くで見れば花柄だったり水玉模様だったり愛らしい模様が彫られている髪留めを使っていた。
「無地の髪留めかと思っていたのに、よく見たら小さな桜の花が彫られているのに気づいたのよ。とても素敵だわ。すごく似合ってる」
「ありがとうございます」
「もしこの街で買ったのなら、お店に行ってみたいの」
「お店はあります。雑貨屋さんですが…。そのハンカチもそうですが」
マヤはイルザが購入したハンカチの包みに視線をやりながら。
「私の給金で買えるものばかりのお店で…」
「あら、お値段のことを気にしているの?」
「ええ、イルザさんにとっては安物すぎるのではないかと…」
「そんな気遣いは不要よ。見たことのないような可愛いデザインだわ、このハンカチーフは」
包みを目の高さに掲げてイルザは嬉しそうに微笑んだ。
「“可愛い” にお値段は関係ないわ。さぁ、早くその雑貨屋さんに連れてってちょうだいな」
「わかりました」
イルザの笑顔につられて笑ったマヤは、自身の行きつけの雑貨屋に案内した。