第29章 カモミールの庭で
「イルザさん、劇場はないです。ここヘルネはもとよりトロスト区にも。王都以外にはない気がします。私の故郷のクロルバ区にもありませんし…」
「まぁ…! じゃあお芝居を観るときは、みんなどうしてるの?」
信じられないといった顔のイルザ。
「王都の劇場で上演しているようなお芝居ということなら、観れません。どうしても観たいのなら王都に行かなければ…」
「そうなの…。なかなか不便なものなのね」
「そうですね。ただ地元の人がやっているお芝居なら、街の広場だったり居酒屋の店内だったりで観ることができるので、それで満足するなら王都に行かなくても大丈夫だけど…」
「……地元の人がやる芝居?」
レイが口を挟んできた。
「ええ。お芝居が好きな人が集まって、趣味でやるようなものです。本業は他にあって、たとえばお肉屋さんとか大工さんとかケーキ屋さんとか。休日に集まって練習して不定期で皆の前で演じるって感じで。お金もとらない場合が多いです」
「なるほどな…。じゃあマヤは本格的な舞台は観たことがねぇのか?」
「あぁ… うん、そうですね、ないです。子供のころにデイブさんのお芝居は観たことがあるけど」
「デイブ?」
「うちの近所の万年筆屋さんです。昔、役者を目指していたらしいです」
「そうか。もし王立劇場の舞台が観てぇのなら、いつでも切符を手配してやるから遠慮なく言ってくれ」
「……ありがとうございます」
マヤはレイに頭を下げてから、会話から置き去りになってしまっているイルザに声をかけた。
「イルザさん、お芝居が観たかったのですか?」
「いいえ…、お芝居は王都に帰ればいつでも観られるわ。そうじゃないの、ここでマヤさんと何も考えずに、何も縛られずに好きにお買い物をしていたらね、私が一番楽しかったお出かけを思い出したの」
「一番楽しかった…?」
「ええ、そうなの。お芝居を観たのよ、王立劇場で。一番の思い出だわ」
「……そうなんですね」
……王立劇場でお芝居を観たことが一番の思い出…?
マヤは不思議に思った。
別にイルザさんなら、いくらでも好きなときに好きなお芝居を観れるはず。
どうしてそれが、一番の思い出なのかしら…?