第29章 カモミールの庭で
イルザの言葉で、それまでめずらしく全く口を挟まずに静かにしていたアマンディーヌ・バルネフェルト公爵夫人が、ぱんと手を叩いた。
「あぁ! そういえばいたわね、紅茶の魔術師! イルザなんか毎日のように呼びつけていたじゃない? あたくしがいつ行ってもサロンにいた気がするわ、紅茶の魔術師…、名前はなんだったかしら?」
………!
またマヤの胸は跳ねる。
紅茶の魔術師とレイも言っていたから、リックのことで間違いないのだ。しかしあらためて今、イルザの口からその名が語られるとなると、マヤの心臓はドキンドキンとうるさく跳ねて仕方がない。
「あら嫌だアマンダ、忘れたの? リック・ブレインよ、あの当時、王都の誰もが夢中になった紅茶の魔術師の名前は…」
「そうだったわね、リック・ブレイン! 本当に彼の淹れる紅茶は他の紅茶商とは違っていたわ。味と香りが素晴らしいのはもちろんのこと、なんて言えばいいのかしら…」
公爵夫人は小鳥のように首をかしげていたが、パッと少女のような笑顔になった。
「エンターテインメントにあふれていたわ! リックのおかげで退屈な日常がワクワクしたもの。ねぇそうでしょう? イルザ」
「そうね、アマンダ。リックの技は私に、紅茶の概念を変えさせたわ」
「本当にすごい人だったわ!」
二人はリックのことを思い出して盛り上がっていたが、ふっと公爵夫人がその美しい流線型の細い眉をひそめた。
「本当に懐かしいわ。今の今まですっかり忘れていたけれど。だって…、彼、急に姿を消したわよね? どうしてかしら? あんなに大人気で、あちらこちらのお茶会にひっぱりだこだったのに。イルザ、何か知っていて?」
「……いいえ」
イルザの声が色を無くした。
マヤは何ひとつ見逃すまいと、イルザを見つめている。
「何も知らないわ…。でも一日たりとも忘れたことなんてなかったわ…」
「イルザは彼のことが大のお気に入りだったものね」
「ええ…」
無邪気に笑う公爵夫人の顔を、イルザは見ないようにしている。
「どこに行ったのかしらね? 田舎にでも帰ったのかしら…。紅茶商をやめたのかもしれないわね」
「それはないと思うわ!」
イルザの語気が思いがけず強くて、公爵夫人は目を丸くする。