第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
言葉は大人しいものだが、顔を逸らして淡々と告げる杏寿郎の姿には見覚えがある。
言うなれば幼い子供の拗ねた顔のような。
杏寿郎が蛍にだけ偶に見せる、十歳の顔だ。
「…あのね、」
グラスが割れてもそこまでショックを受けなかったのは本音だ。
それ以上に杏寿郎達に買ったお揃いのグラスが無事であったことの方が安堵した。
しかしそれは自分のグラスに執着がなかったからではない。
それ以上のものを貰っているという自覚があったからだ。
物欲は確かにあまりないのかもしれない。
幼い頃から姉と二人で質素な暮らしをしてきた。
身売りをして稼いでいた頃も、金銭は全て姉の治療費と生活費に注いでいた。
優先事項の先にはいつも誰かの命があった。
それに勝るものは蛍の中にはない。
それでも。
おはぎやババロアにチョコレイトウ。
歌舞伎や神幸祭に露天風呂。
生きる上で必ずしも必要ではないもの。
それでも誰かと笑顔を向け合う度に、心を豊かにする度に、必要だと思えたものもあった。
それは鬼となって、目の前の彼と出会って、育っていった心の一部だ。
「今日、初めて体験した露天風呂。一番最初に一緒に入れたのが杏寿郎でよかったと思ってる。…ううん。他の誰でもない杏寿郎でよかった。二人の思い出にできたことが、凄く嬉しい」
脱衣所を出た所で足を止める杏寿郎を、近しい距離で見つめる。
「それに、瑠火さんのお墓参りをした時にお花を貰ったでしょ? 杏寿郎には桔梗を、千くんには花束を」
「ああ…そんなこともあったな」
「あれね、途中で桔梗を潰してしまって凄く凹んでいたら、千くんが後でこっそり押し花にしてくれたの。とっても嬉しかったから千くんに貰った花束の白薔薇二本も、押し花にして下さいって頼んだくらい」
与助との偶然の出会いにより騒動を起こし、一度杏寿郎と千寿郎の前から消えた蛍。
次に見つけた時にその潰れた桔梗を手にしていたことは杏寿郎の記憶にもあった。
あの時は言葉で励ましただけだったが、植物に詳しく、また繊細な気遣いのできる千寿郎らしい対応につい感心する。