第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「煉獄家にいる間に仕上がらなかったから、千くんに完成は任せて預けてきたけど…だから次にあのおうちに帰るのが、凄く楽しみなの」
思い返すように話す蛍の目は、その花々を思い浮かべているのか。
杏寿郎の手で髪に桔梗の花を飾ってもらった時に見せた笑顔と同じものを浮かべていた。
そっぽを向いていた杏寿郎の顔が、誘われるように蛍へと向く。
「物欲、ない訳じゃないよ。杏寿郎から貰えるものは特に、私には大切なものだから。それが何気ない一輪の花でも、使い古した髪紐でも」
今手にしている簪も、千寿郎に預けてきた押し花も。
どちらも手放せない大切なものだ。
「そこに優先順位はないの。どれも私には一番だから」
重なる視線に恥じらいを残して。
はにかみ笑う蛍に、杏寿郎は息を吞んだ。
咄嗟に言葉は出てこなかった。
自分の中では然程気にしていなかった潰れた桔梗の花に、そこまでの思いを馳せていてくれたとは。
自分にとっては細やかなものが、彼女にとっては譲れないものだったとは。
簪の大切さは知っていた。
知っていたはずなのに見落としていた。
「それに…花とか、髪紐とか、そういう形だけじゃなくて。杏寿郎にこうして触れてもらえる手だとか…抱きしめてくれる腕だとか…与えてくれる、精、だって」
恥じらう顔が尚も色付く。
辛うじて聞き取れる程小さな声で、俯き加減に蛍は囁いた。
「他の人には譲れない。…私のいちばん特別なものだもん」
いつかどこかで聞いた言葉。
『こうして触れられるのは、私だけだから』
形以上のものを沢山貰っているからと。触れ合えることが幸福でならないと、口付けと共に笑って向けてくれた言葉だ。
甘い、あまい、独占欲。
欲がないのではなく、それは形に見えない想いをして蛍の心に在っただけだ。
何より欲していたものは、他ならぬ杏寿郎だった。
「…っ~…」
「わっ?」
がくんと目線が急に下がる。
へなへなと力なくその場に屈み込んだ杏寿郎が、抱いた蛍の胸に突っ伏した。