第20章 きみにより 思ひならひぬ 世の中の
「じゃあ…失礼、します」
一滴も取り零すまいとするかのように、丹念に爪先の血を蛍が舐め取っていく。
杏寿郎の頸から広がる血の跡には、まるで口付けるかのように。ひとつ、ひとつ。
濡れた舌が血に赤く染まる。
鬼が血を啜る姿だというのに、艶やかに見えるのは蛍だからなのだろう。
ただいつものように夢中になってそれを味わっているようには見えない。
高揚はしているものの、集中し切れてはおらず。そわりと蛍は心配そうに辺りを見渡した。
「…蛍?」
頬を指の背で撫でて呼びかければ、辺りに揺らいでいた緋色の瞳が杏寿郎を映す。
「どうした」
「…大丈夫、だったかな。途中で影鬼も解いてしまったし…声も、抑えられなく、て」
心配しているのは、此処が煉獄家の庭だということだ。
その不安を包むように、杏寿郎は剥いていた浴衣を蛍の肌を隠すように羽織らせた。
「俺はもっと聞きたかったが」
「そ、そういうことじゃ、なくて。…槇寿郎さんに気付かれてないかな…」
「それなら問題ない」
「なんで言いきれるの?」
「あそこにいる彼が平気な顔をしているからだ」
「えっ」
誰かいるのか。
杏寿郎の指摘に、ぎくりと視線の先を追う。
「……政宗?」
夜目が利く蛍の目が捉えたのは、闇に同化するように立派な庭の松の木の枝に停まっている鎹鴉だった。
目元の傷と隻眼は、この屋敷内にいる鴉では一羽しか該当しない。
蛍達から離れているものの、小さな頭はこちらに向いている。
かと思えば、そっぽを向いて少し下がる。
遠目でもわかる。
それはよく見かけていた、溜息をつく政宗の仕草だ。
「み…見られてたの? 政宗に?」
「蛍が庭に出た時、あの枝に停まる政宗が見えた。あの松は俺も幼い頃、登って遊んだことがあるからわかる。あの場からは我が家が見通せる、長年家族を見守ってきた大木だ。俺達を一見しながらも政宗の目は家へ向いていたので、周りを監視してくれていたのだな。気配りのできる良い鴉だ」
「……」
「…俺はそんなに変なことを言ったか?」