第9章 澱の沈む夜に
白いシャツ越しに、筋張った硬い腕の感触が伝わる。細く見えるのに、思ったよりずっと力が強い。
胸元を押し上げられるような格好になり、ニナは息を呑んだ。
「……、……」
すぐ背中にイルミの気配がある。濃厚なワインの匂いの奥にイルミ自身の衣服の匂いが混じっていた。
ニナの後頭部が微かにイルミの胸元に寄る。触れているのか触れていないのか分からない距離だった。それだけで、耳の奥が熱くなる。
鼓動がますます早くなっていくのをニナは止めることができない。
転んだから。驚いたから。割ってしまったワインのことが怖いから。
ニナは必死でそう思おうとした。
けれどイルミの手が脇腹から離れた後も、そこに触れられた感覚が妙に生々しく残る。
――頭がおかしくなりそう。
一瞬、意識が落ちたようにニナは瞼を伏せ後頭部がぐらりとイルミの胸元へ傾いた。
自分の胸元へ寄りかかりかけたニナの背を、イルミは軽く押し返した。
「ほら、立って」
「……は、はい」
ニナはハッとして、ようやく自分の足に力を入れた。
視線を落とせばドレスの前はすっかり濡れていた。袖口からはワインが一筋指先へと流れている。床には硝子片が散らばり割れた瓶の残骸が不格好に転がっていた。
また血の気が引いていく。
「ど、どうしよう……」
「怪我は?」
「え……」
言われて初めて、ニナは自分の指を確認した。小さな切り傷がひとつ小指の付け根にできている。赤い線が浮かんでいたがすでに血は止まっていた。
「た、多分、大丈夫です」
「そう」
イルミはそれ以上、傷には何も言わなかった。