第8章 不協和音(ディソナンス)
「……婚約?」
声は平坦だった。
しかし、その一瞬の沈黙は重い。
漆黒の瞳の奥がゆっくりと凍りつくような気配がした。
だがゴトーは淡々と続ける。
「お相手はヴェルハイト公爵家次男、ライネル=ヴェルハイト卿にございます。貿易商としてご活躍されているご領主様です。来月には正式な婚約の儀が執行予定となっておりますので、イルミ様にもご日程をお願い申し上げます」
沈黙が落ち、ゴトーは静かに目を伏せた。
「下がって。疲れてる」
執事長ゴトーが静かに頭を垂れる中、イルミはゆっくりとソファから立ち上がった。
「失礼致しました」
ゴトーは静かに部屋を後にし廊下に出る。
——さて、どう動く。
閉ざされた扉の向こうで、イルミが今どんな表情を浮かべているのか。
この家で今最も危険なのは、ニナの運命を定める規律でも権力でもない。
ニナを自分の支配下に置こうとするイルミの存在そのものだ。
(——ニナ様を無事、ウチの屋敷から送り出すまでが俺の役目だっ!)
メガネの奥で目を細めたゴトーは足音を殺して歩き出した。