第8章 不協和音(ディソナンス)
ゾルディック邸宅。
午後の執務室には、羽ペンの乾いた音が滑らかに響いていた。
ニナは脇にペンを置き、並べられた帳簿へと視線を落とした。
昨日届いたボルドーのワイン樽の数、厨房へ回した小麦粉の量、使用人たちへ支払う今月分の賃金と食糧手当──。
数字を一つひとつ確認しながら書き留めていく。
「数字をお書きになる際は、必ず余白を揃えていただきますよう、ニナお嬢様」
隣に控える老執事は、腰を深く折りながら白い手袋をはめた指で帳簿の欄を軽く示した。
「後々ご覧になった時に乱れた帳簿は、そのままご家の乱れと見なされます。貴族の家は、数字のひとつひとつに品格が宿るもの。どうかお忘れなく」
「……はい、承知いたしました」
ニナは頷くと書き損じぬよう慎重にペンを走らせる。インクの黒が羊皮紙の上に滑るたび、指先がわずかに緊張した。
かつては朝を迎えると厨房へ立ち、煮立つ鍋を見ながら一日の段取りを考えていた。
しかし婚約が決まって以来、キキョウ夫人は少しずつニナの役割を変えていった。
領地経営の片鱗を学び、夫を支える準備をするように──。
「そうです、その調子で。字も大変に丁寧で結構。きっと、立派な侯爵夫人におなりになるでしょう」
老執事の声に穏やかな満足が滲んだ。
「いいえ、まだまだ。ツボネさんのお導きがあればこそです」
ここゾルディック家の帳簿を開く時間も、あとどれほど残されているのだろうか。
そんな考えが、ふとニナの胸を掠めた。